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4月御命日法要 2024年04月16日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 「寒さをかこつ一声一声が陽春の呼び声である」。先日見た書物のなかにあったことばである。「寒い寒い」とこぼしているのは、その先に暖かさがあることを知り、それを求めているということでもある。言い換えれば、陽春があるからこそ、寒さをかこっているのだ。だから、求めさせているものからの「呼び声」なのである。小さな子どもが親を呼ぶ。それは子どもが親を求めている姿だが、親の愛情が子に注がれていることを示しているともいえる。親の子に対する愛情、子を思うこころが呼ばせているということである。愛情は目には見えない。しかし、感ずることはできる。子どもが呼んでいるそのことが、すでに親の愛情の中にいるということをあらわしている。見えないから無いということは言えない、ということになる。愛情を、受け入れられているということばに置き換えてみることができないだろうか。あるいは大きなものに抱かれて生きる、と表現していいのではないかと思う。仏さまにお参りすることは、仏さまとお話しするということであっていい。何を話しても聞き入れ、受け入れてくださる。話す姿そのままが仏さまに抱かれている姿でもある。
 宗門校の京都女子学園の創設にかかわった甲斐和里子さんは「み仏をよぶわが声はみ仏のわれをよびますみ声なりけり」ということばを遺される。お念仏を申しているのは私であるが、称(とな)えさせている仏さまがおられるということである。

「2024(令和 6)年 4 月 1 日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


4 月 御命日法要
○ 日時 4 月 16 日(火)16 時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 野田 茜 師(浄土真宗本願寺派布教使)

令和6年度 花まつり 2024年04月11日(木)16時44分

本日は始業式を兼ねて、9時から中学・高1学年の花まつりでした。

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ご講師は、本願寺派布教使の若林唯人先生でした。まず、お釈迦さまの「天上天下唯我独尊」について触れられ、慈悲をテーマにお話しされました。苦しむ者に安らぎを与えることを「慈悲」と言い、阿弥陀さまの慈悲は「同体の慈悲」とも表現されます。それは、全体でその痛みを感じて、その痛みを取り除くからです。まだ、阿弥陀さまのはたらきは重力と同じように目には見えませんが、今もこの私に向かってはたらいている、それが阿弥陀さまのはたらきなのです。

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 若林先生は続いて、遠距離になって失恋したときのエピソードを紹介されました。その際、同じ経験をしたという大学写真部の先輩が話を聞いてくれて、「この先輩はこの失恋の辛さをわかってくれる人だ」と思われ、そのとき「この経験がいつか同じ失恋をした人の支えになる」と確信されたのです。
 また、若林先生は大学院生のとき、ゼミ発表などでしんどい状態になり、そこから大学キャンパスに入れなったときのことをお話されました。人に相談して励まされたものの、「今の辛さが他人からしたら大したことはない」と思われている気がして、自分にとっては100%のしんどさがあったと言います。そのとき阿弥陀さまの存在を知っていれば、しんどさも随分違ったことだろうと、若林先生は当時のことを振りかえっておられました。阿弥陀さまはいつでもどこでも私に寄り添ってくださる仏さまなのだということを、若林先生のご法話からあらためて感じさせられました。

 続いて、10時から高2、3学年の花まつりでした。ご講師は、本願寺派布教使の正親(おおぎ)一宣先生でした。

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正親先生もまず初めに、「天上天下唯我独尊」の言葉を挙げられ、仏陀の意味を説明されました。仏陀とは目覚めるお方のことですが、「目覚めさせる者」でもあります。そして、目が覚めている者からすれば、目が覚めていない者のことがよく見えます。阿弥陀さまからすればよく見えているが、私たちからすればつかみ切れていない。そのたとえとして、実姉とのエピソードを述べられました。正親先生はソファーに座って寝ていた姉がうなされている姿を見て、「目が覚めていない姉からすると、私(弟である正親先生)の姿は全くわからない。そして、自分が見ているもの(=悪い夢)が本当だと思って、悩み苦しんでいる。目が覚めている私からすれば、姉が見ているのは夢であって本当ではない。本当でないものを本当だと思って苦しんでいる姉の姿を見ていたら、目覚めさせずにはおれなかった(起こさざるを得なかった)」と。そのエピソードから、正親先生が仰るとおり、目覚めた者はまさに「目覚めさせる者」でもあると言えるでしょう。
 そして、最後に「天上天下唯我独尊」の言葉に触れられ、いつも他人と比べてしまうこの私に対して、「あなたが誰にも変わることができない尊いいのちなんだぞ」と、阿弥陀さまが教えてくださっている。その尊い阿弥陀さまの眼差しに支えられ、その眼差しを知っているのと知らないとでは違うでしょう。正親先生のご法話も、阿弥陀さまの慈悲につながるお話でした。

2024(令和6)年4月 今月の聖語・言葉について 2024年04月05日(金)13時00分

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今月の言葉・・・正門聖語板
今月の言葉・・・教室掲示

【今月の聖語】
遇いがたくして 今遇うことを得たり 『教行信証』

  この言葉は、親鸞聖人が書かれた『教行信証』に出てくるもので、親鸞聖人ご自身が尊敬すべき師に出遇えたこと、そして真実の教えを聞くことが出来たことへのよろこびを述べられています。
 親鸞聖人はここで「遇」という字を用いていますが、この字は「偶然あう」という意味です。みなさんの日常を振り返ってみても、たまたま同じ学校だった、たまたまクラスが一緒だった、たまたま同じクラブ活動だったなど、人との出遇いとはまさに偶然だと思います。
  四月に入り新入生は中学生活、高校生活がスタートします。二年生、三年生も年度が変わり、新学年として新たな気持ちで始業式を迎えたことだと思います。
新しい環境になり、この一年もみなさんにとって多くの出遇いがあることでしょう。様々な出遇いを大切にしてほしいと思います。そして、平安での浄土真宗のみ教えとの出遇いも改めて大切にしてください。

【今月の言葉】
たった一言が人の心を傷つける たった一言が人の心をうるおす  殿村進 

  みなさんの日常では、どのような言葉が交わされていますか。今までの生活を振り返ると、誰かの一言で救われた人、元気や勇気をもらった人もいるでしょう。その反面、嫌な思い、つらい思いをした人もいると思います。今月の言葉が示すように、言葉がもつ影響力は大きなものだと言えます。当然のことながら、相手に寄り添い、人の心を潤すような言葉を心がけたいものです。
 以前、次のような言葉を目にしました。作者は詩人の吉野弘という方です。詩の一部になりますが、紹介します。
  正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気付いているほうがいい
暴言や汚い言葉だけでなく、良かれと思って発した言葉も言い方次第で相手を傷つけてしまうということです。自分自身が正しいことを言っていると思っているときこそ、言葉を慎重に選んだ方が良いかも知れません。一言の重みを改めて感じながら言葉を発していきたいですね。

2024(令和5)年3月 御命日法要について 2024年03月12日(火)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


 「春を待つ」という語は、日本では古く万葉の時代から愛されてきたといわれる。西行法師は「おいかはる春の若草待ちわびて原の枯野(かれの)に雉子(きぎず)鳴くなり」と、若草が生え替わる春の訪れを待ちわびて鳥が鳴いていると歌う。待ちわびる、待ちどおしく思うこころが読み取れるとともに、自然との一体感がひびきとして伝わってくる。最近は、天気予報が詳しく春の到来を予想してくれる。そのせいか、春の到来を待ちわびることも少なくなった。科学技術の進歩により、即刻結果がでることで待たなくてよくなったとも言えよう。待ち合わせも変わった。時間に遅れても携帯電話ですぐに相手に知らせることができるからだ。昔はそうはいかず不便だった。しかし、遅れた私を信じ待ってくれた相手の行動に感謝し、信頼の絆が強くなったことを覚えている。「待」は、待つというだけでなく、「頼りにする」という意味がある。「期待」という熟字がそれを示している。何かに頼らずに我々は生きていけない。自分一人の力で生きていると思いがちだが決してそうではない。周囲に支えられ、大きな力に身をゆだねて生きていると言ってもいいだろう。こう見ていくと「待」の字には、限りなく相手を思うこころ、そして優しささえ感じられる。親鸞聖人は「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」と述べられている。単に出会いを待つのではなく、聖人の弟子に対する温かな思いが込められているのである。

「2024(令和6)年3月1日(金曜日)本願寺新報『赤光白光』より」


3月御命日法要
○ 日時 3月12日(火)13時30分~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 工藤恭修 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2024(令和6)年3月 今月の聖語・言葉について 2024年03月02日(土)08時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
「愚者三人に智者一人」とて、何事も談合すれば面白きことあるぞ。
                  『蓮如上人後一代記聞書』

 今月の聖語は、蓮如上人の言葉です。愚者三人でも智者一人分の知恵が出るように、仲間と寄り合って話し合うことで、良い知恵が浮かぶということです。また「談合」とは、話し合いや相談するという意味です。ことわざにある「三人寄れば文殊の知恵」と同じたとえです。自分ひとりでは、考え方が狭まってしまい、なかなか良い知恵が浮かばないことがあります。そんなときに、他の人の意見を聞き、人と話すことで広い視野で考えることができます。
 ところで「三人」という人数ですが、話し手と聞き手、そしてそれを客観的に見る人という、非常にバランスのとれた形だそうです。二人だと意見の対立が起こる場合もあり、その場に客観的に見る人がいれば、話もこじれにくいというわけです。一人で考えて良い案が浮かばないときは一人で悩まず、まわりの人と積極的に談合してみてはどうでしょうか。


【今月の言葉】
足ることを知らない者は 富んでいても貧しい。 『遺教経』           
 
  今月の言葉は、お釈迦様が最後に説かれた説法をまとめた『遺教経』の一文です。私たちは、お金や物など欲しい物が手に入っても、「もっと欲しい、もっと欲しい」と新たな欲が起こり、それはとどまることを知りません。人間はそれだけ欲深く、足ることを知らないのです。足ることを知らない人は、いくら経済的に富んでいても、満たされず心は貧しい。そのことをお釈迦様は見抜かれ、反対に「足ることを知る人は、貧しくても富んでいる」と仰っているのです。
  1つの例えとして、半分の水が入っているコップがあったとします。これを見て「水が半分しか入っていない」と考えるのではなく、「水が半分もある」と考えれば、満足度が増します。私たちの欲にはキリがありませんが、この例えのような考え方をすれば、少しは満足な気持ちになるのではないでしょうか。
                            
合掌                                

令和5年度 涅槃会 2024年02月09日(金)13時00分

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本日10時より本校講堂において、涅槃会を勤修いたしました。この度のご講師は、本願寺派布教使の津守秀憲先生にご法話をいただきました。

津守先生は仏教の暦の読み方を紹介され、お釈迦さまが涅槃に入られてから、今年で2567年に当たるそうです。そのお釈迦さまが本当に説きたかったものが、阿弥陀さまのお救いが説かれた『仏説無量寿経』であり、その阿弥陀さまが「必ず救う」と仰ってくださるのは有難いことです。私たちは普段、なかなか相手に責任を持って「必ず」という言葉をつけて言うことがありません。

津守先生があるお寺へご法話に行く際、電車が止まってしまい、タクシーに乗られたそうです。その時に「13時までに着きますか?」と尋ねたところ、運転手さんから「行けます、行けます、たぶん」いう返事が返ってきました。タクシーは時間通りに到着したのですが、運転手さんの「たぶん」の一言で、津守先生は「時間どおりに着けるのか」まったく安心できなかったそうです。もし阿弥陀さまも「たぶん」という言葉が付いていたなら、私たちは安心して手を合わせられず、自分で努力することも必要だと思うかもしれません。そうなると、自分のやった功績だけが見えてきて、阿弥陀さまの姿を見なくなっていく。津村先生は、「これが私の姿なのだ」と仰いました。さらに、津守先生は親鸞聖人の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」〔『歎異抄』後序より〕のお言葉を引用され、親鸞聖人と同じく、阿弥陀さまの救いの船は、私たち一人ひとりのための船だという見方ができることを示されました。 
 
後半では、お笑いの北野たけし(ビートたけし)さんとお母さんのあるエピソードをお話されました。お母さんは子供たちに貧乏生活から脱出させるため、良い教育を施されたといいます。良い大学に入ることで良い会社に就職でき、高額な給料がもらえるからです。しかし、たけしさんは有名私立大学に合格したものの、大学在学中にお笑い芸人になると大学を辞めてしまいます。お母さんは「なぜ貧乏な方へ行ってしまうのか」と嘆かれたそうですが、お笑いブーム到来でたけしさんにスポットが当たり、その後は役者や映画監督などどんどん開花していきます。そんなたけしさんに対して、お母さんはたけしさん名義の預金通帳を作り、万が一のために備えてお金を貯めていたのです。そして、当の本人は亡くなるまで質素な生活を貫かれました。そのお母さんの通夜の際、「どんなお母さんでしたか?」というインタビューに対し、たけしさんは「おいらの知っている母ちゃんは、いつも泣いている、働いている母ちゃんでした」とその場で泣き崩れたのでした。心配をかけ続けたこの私のためにたくさんの愛情があったことに気づかれたのです。

 津守先生は、阿弥陀さまも同じであり、この私一人のために救いというものを説いてくださり、阿弥陀さまのご苦労があったのだと強調されました。そして、お釈迦さまのお経1文字1文字が私を救うための説法であったことを、この涅槃会の行事を通して感謝したいところです。

2024(令和5)年2月 御命日法要について 2024年02月08日(木)08時00分

私たちのちかい  一、自分の殻に閉じこもることなく
           穏やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


 3年前に、京都で世界宗教者平和会議50周年記念式典が開催された。その様子を紹介する新聞記事には、シンポジウムの講演内容を示す見出しに「共感力生かす社会重要」「地球として危機感共有を」と「共感」「共有」という言葉が並んでいた。この言葉はよく見聞きし、人口に膾炙する。それは、共感、共有するこころが失われていっている時代だとも言える。今こそ、この言葉のこころを思い起こし、大事にしていかねばと思うことである。人間には、他人の感情を自分のもののように感ずる能力である共感が備わっており、他人の苦しみや悲しみを背負うことや、他人の喜びを自分のものとし、1人の世界の何倍もの喜びを得ることができるという。
 しかし、人の喜びを自分のものとすることは簡単なことではない。「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」「隣の芝生は青い」という言葉があるように、共に喜ぶということは難しい。仏典には、真の友とは互いによきことがあれば共に喜ぶ、とある。共に喜ぶ姿は美しく、崇高でさえある。仏教は一体感を説く教えである。相手を受け入れ、また、相手の中に自己を見出していく生き方と言っていいのであろう。
 人間は 1 人で生きているのではない。私そのものも他によって私たらしめられており、私自身が他を他たらしめている。そこに気付く中に、人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶというこころが起こり、その先に平和な社会の構築があるのではないだろうか。

「2024(令和6)年2月1日(木) 本願寺新報『赤光白光』より」


2月御命日法要
○ 日時 2月13日(火)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 勤行 正信念仏偈
○ 法話 正親一宣 師(浄土真宗本願寺派布教使)

2024(令和6)年2月 今月の聖語・言葉について 2024年02月01日(木)08時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや
                        『歎異抄』

 親鸞聖人が示された有名なお言葉です。日本史や倫理の教科書に示され、かつてセンター試験(現共通テスト)にも出題されたことがあります。「善人でさえ往生できる。ましてや悪人ならなおさらだ」という意味です。
 往生というのは、仏の悟りの世界である浄土に生まれるということです。善い行いを積み重ねることで悟りに向かうというのが一般の道理です。ところが、善人よりも悪人こそが往生すなわち悟りに向かうことができるというのは、どういうことでしょうか。
 ここでの悪人とは、道徳的に悪いということではなく、阿弥陀仏の願いを聞き、自らの罪悪を深く悲しむ人のことです。また善人とは仏によらずとも、自らの善なる行いによってこそ、悟りに向かえると信じている人のことです。つまり、ここでの悪人とは、道徳的な善悪を超えて、自らが愚かな人間であることを悲しみながらも、そのような存在を対象に「必ず救う」と誓われた阿弥陀仏のお心を慶ぶ人のことをいうのです。

【今月の言葉】
あいつはキライ これはダメ あいつは困る 
こいつはいい と切り続ける 私はどうもハサミのようだ
                        平野 修

 この言葉を聞いた金沢市のある少年の言葉を紹介させていただきます。
 「僕もハサミだ。家にはお祖母ちゃんがいる、僕が学校から帰ってくると、宿題が終わるまで僕の机の横で見張っている。そんな時、こんなお祖母ちゃんはいないほうがいいな、と思う。でも、さつま芋の収穫を手伝った時、『よう手伝ってくれたね。これはお駄賃』と言って五百円を手に握らせてくれた時、お祖母ちゃん百年ぐらい生きて欲しいと思った。自分の都合でお祖母ちゃんが居ないほうがいい、居たほうがいいと思うのは僕もやっぱりハサミだね」 (川瀬智氏の法話より)
 ついつい自分の都合を優先させ、回りを顧みない「ハサミ」になってしまうこの私に、気付かせて頂く言葉。 

令和5年度 報恩講 2024年01月12日(金)12時24分

本日は10時より、本校講堂にて報恩講を勤修しました。報恩講は、親鸞聖人のご命日をご縁として営まれる宗教行事です。

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本願寺派布教使の渡辺雅俊先生より、親鸞聖人のご生涯に寄せながら、ご法話をいただきました。「南無阿弥陀仏」とは阿弥陀さまの声であり、私はどんなときでも一人ではなく、いつも阿弥陀さまがご一緒してくださっていることを示されました。そのたとえとして、阪神淡路大震災時に取り上げられたある家族のことなどを紹介されました。

2024(令和6)年1月 今月の聖語・言葉について 2024年01月01日(月)09時00分

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今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示今月の聖語

【今月の聖語】
他人に教えるとおりに、自分でも行なえ。
自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。 『ダンマパダ』

 日常生活の中で「こうした方がよい」、「これはやめたほうがよい」など、周囲の人に対してついつい口を出してしまうことはないでしょうか。人のことはよく見えますが、肝心の自分のことと言えば・・・意外と気づかないことが多いかも知れません。つい口が先行してしまいがちですが、言っている自分自身がしっかりと実行できいなければ言葉に説得力もありませんね。
  しかしながら、自分自身の言行を整えるということは非常に難しいことでもあると思います。釈尊も、この「今月の聖語」の続きで「自己は実に制し難い」と述べられています。そのような「制し難い自己」であることをしっかりと自覚した上で、日々の言動に厳しく向き合うことが大切なことだと思います。
新年を迎えました。改めて自分自身の言動を振り返りつつ、これからの日常生活でこの聖語を心に留め過ごしてもらえたらと思います。

【今月の言葉】
願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽(のこ)すことなかれ。『教行信証』

いよいよ二〇二四年がスタートしました。新しい年をみなさんはどのような心境で迎えたでしょうか。「一年の計は元旦にあり」という言葉があるように、勉強のこと、クラブ活動のことなど、昨年の反省を踏まえ、新たな目標に向けて気持ちを引き締めていることだと思います。
 今月の言葉に述べられているように、仏教では「無常」を説きます。「無常」とは仏教で中心となる教えの一つで、すべては移り変わっていくことを意味します。私たちは後戻りができない、最初で最後の貴重な時間を日々過ごしています。もっと勉強しておけば・・・、もっと部活の練習を真面目にしておけば・・・等の後悔を残すことなく、今年も自分の目標に向けて精一杯コツコツと積み上げていきましょう。
 何事も節目が大切です。気持ちを新たに二〇二四年も精進していきましょう。

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