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記事一覧

今月の言葉《宗教教育係》 2016年09月01日(木)08時00分

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九月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2016年08月01日(月)08時10分

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八月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【7月】 2016年07月15日(金)08時10分

【ご案内】

平成28年7月1日『本願寺新報』に、『平安の願い“三つの大切”』(平成28年4月1日発行)にも載せております『祝婚歌』(吉野弘)が取り上げられておりましたので、一部ご紹介いたします。

■自らの愚かさに気づく
 吉野弘さんの『祝婚歌』という詩があります。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気付いているほうがいい
(中略)
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
(以下略)

 けんかや争いが起こるのは、お互いが「自分が立派で正しく、相手が愚かで間違っている」と思っている時です。自分が間違っているけど、相手に文句を言ってやろうという人はあまりいません。戦争も、正義と正義が戦っているのです。もう少し正確に言うと、自分が正義だと思っているもの同士が戦っているのです。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい」という言葉は、自らの愚かさに気付くことが大切だということを教えてくれます。
 親鸞聖人がお手紙の中で「世のなか安穏なれ」に続いて、「仏法ひろまれ」と言われているのは、仏の教えによって、自らの愚かさ(自己中心性)に気付かされるところにこそ、「世のなか安穏なれ」と願い、その実現に向かって生きる生き方が生まれてくるからなのです。決して、「世のなかが安穏になるよう、みんなが善人になりましょう」と言われているのではありません。
 本当の意味での善人になれない私。煩悩だらけの愚かな人間でしかない私。けれど、そのことに気付いた時、ただの凡夫ではなくなるのです。人間だから仕方がないと開き直るのではなく、自己中心のあり方を申し訳ないこと、悲しいことだと受け止めた時、そこに、新しい世界が開けてくるのです。
(『2016年7月1日本願寺新報「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章』)

おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

7月 御命日法要 
○ 日時 7月15日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 鎌田善弘 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年07月01日(金)17時00分

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七月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【6月】 2016年06月15日(水)20時57分

【ご案内】

『2016(平成28)年5月1日(日曜日)本願寺新報 第3234号』より

「いのちの栞」   龍谷大学非常勤講師 小池秀章

 自ら仏に帰依したてまつる
 自ら法に帰依したてまつる
 自ら僧に帰依したてまつる 「三帰依文」

■何を依りどころに生きるか
仏教の3つの宝
 仏教には大切なものが三つあり、三宝と呼んでいます。
 三宝とは「仏法僧」の三つのことで、「仏」は仏さま(真実に目覚めた者)のこと、「法」は仏さまの教えのこと、「僧」は仏さまの教えに従って生きる人たちのことです。この三宝によって仏教が成立することから、古くから大切にされてきました。
 そして、その三宝に帰依する(依りどころとする)ことを「三帰依」と言います。釈尊在世の当時は、「三帰依文」をとなえることによって、仏教教団への入門が許されていました。仏さまの教えを聞こうとする人は、まず、この三宝に帰依することが大切になります。
 では、三宝に帰依するとは、本質的にはどのようなことを意味するのでしょう。それは、自分の生きる依りどころ、物事の判断基準(ものさし)を三宝におくということなのです。 相田みつをさんの言葉に、
そんかとくか
人間のものさし
うそかまことか
仏さまのものさし
があります。私たちは普段、損か得かのものさしで物事を判断しています。しかし、仏さまは、嘘か真かのものさしで物事を判断するのです。自分の損得に関係なく真実を求めて生きる。それが三宝に帰依する意味なのです。
 つまり、三宝を依りどころにするということは、損得をものさしとする自己中心の生き方から、真実を求めて生きる生き方への転換だと言っていいでしょう。
わが身を知らされ
 ちなみに「仏」は、もともと梵語(昔のインドの言葉)で「ブッダ」、「法」は「ダンマ」、「僧」は「サンガ」と言います。また、「帰依」は梵語で「ナモ」、それが漢訳(音訳)されて「南無」となりました。
 音楽礼拝の「三帰依」
ブッダンサラナン
ガッチャミ
ダンマンサラナン
ガッチャミ
サンガンサラナン
ガッチャミ
 帰敬式の「三帰依文」
  南無帰依仏
  南無帰依法
  南無帰依僧
も、ともに同じ意味なのです。
 普段の生活の中で、三宝を依りどころに生きることを忘れないでいたいものです。


おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

6月 御命日法要 
○ 日時 6月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 楠 深水 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年06月01日(水)07時54分

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六月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

宗祖降誕会・開校記念式(創立140年) 2016年05月21日(土)17時59分

講堂にて宗祖親鸞聖人の生誕を祝う降誕会ならびに開校記念式を執り行いました。
浄土真宗本願寺派布教師高澤恒雄先生より浄土真宗のみ教えから阿弥陀様の思いについてのお話を聴聞いたしました。
阿弥陀様は「私があなたのためにがんばるから、私にまかせなさい」とおっしゃるのだとお話しくださいました。
高校1年生456名は全国の宗門関係学校の学生・生徒と一緒に宗祖降誕奉讃法要に参拝いたしました。

平成28(2016)年度 御命日法要【5月】  2016年05月16日(月)17時55分

【ご案内】

4月の御命日法要でご紹介いたしました、本願寺派保育連盟 教育原理委員長 丁野(ようの)恵鏡(えきょう)さんの『お父さん、お母さんへのメッセージ』から、宗教的な環境によって育まれる「まことの保育」を、一部改変して記させていただきます。

1、私たちは、すぐに他人と比較したり、また区別や差別をして、子どもの平等のいのちが見えなくなっていきます。阿弥陀さまのまなざしは、一人ひとりのいのちを平等に見ておられます。そして誰一人見捨てることなく、全てを等しく救いとってくださるのです。子どもが「お母さーん」と呼ぶのは、こころの中のお母さんが子に呼ばしめているのと同じように、私が「南無阿弥陀仏」と如来さまのお名前を称えるのは、こころの中の如来さまが「私の名を呼んでね」と、私に呼ばしめてくださるのです。阿弥陀さまは目には見えないけれど、常に私に寄り添い、共に悲しみ共によろこんでいてくださいます。
2、一粒のお米ができるまでには太陽や水、土など自然の恵みがなくてはなりません。多くの労働力もいります。私たちはそのお米のいのちをいただいて生きています。しかし、ややもするとそうしたことをすっかり忘れ、あたり前であるかのように日常を生きているのではないでしょうか。静かに自己を省みますと、多くの生きものの犠牲と、自分以外の目には見えない大きなはたらきによって生かされていることに気づかされます。あたりまえと生きている私は、決してあたりまえではなかったのです。「ごめんなさい」と自己を省み、「ありがとう」と精いっぱいいのちを輝かせ、社会のために自分のできることを奉仕する生き方を目指しましょう。
3、人間は自己中心の物差しで他人の話を聞いてしまいます。子どもは自分が見たり聞いたりした感動を、信頼する大人に聞いてほしいと思っています。ところが大人は、「子どもは幼稚であり未完成であるから」とか、「将来のために正しい指導をしなければならない」などと、子どもの話を十分聞かないで、一方的に自分の思いや考えを子どもに押しつけたりします。その結果、子どもが感動したこと、想像や夢が壊され、かえって子どもの心に欲求不満が沈殿してしまいます。子どもと真剣に向き合い、子どものお話にじっと耳を傾けて、できればそのつぶやきを書きとどめることを心がけましょう。
4、子どもは大人に比べてはるかに純真です。大人は「疑ってはいけない」といわれても、容易に信じることができません。裏切られたり、だまされた経験もあります。しかし子どもは、小さければ小さいほど経験が浅く、従って裏切られた経験もなく、なんでも無条件で信じます。生まれたばかりの赤ちゃんは、無意識のうちにお母さんや周りの大人を受け入れ、全面的に信じて生きています。信じなければ生きられません。だから赤ちゃんの目は澄みきって感動的です。そして大人は、子どもの無心な姿に心が洗われ、生きる活力をもらうのです。大人は、子どもを仏の子として敬わなければなりません。互いに敬い助け合い、そしてつながりあって、仲良くすることの素晴らしさを感じて育ち合っていきたいものです。                      (『本願寺新報 2015年(平成27年)4月10日』より)

おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

5月 御命日法要 
○ 日時 5月16日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 中森寿樹 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年05月01日(日)17時47分

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五月
 今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
 今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成28(2016)年度 仏参【4月】 校長講話 2016年04月27日(水)09時15分

みなさん、おはようございます。

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 みなさんご存知の「平家物語」冒頭であります。あまりにも有名な部分でありますので、みなさんもその意味はよくご存知だろうと思いますが、あらためまして現代語訳しておきましょう。
 祇園精舎の鐘の音には、すべてのものは常に変化し、同じところにとどまることはないという響きがある。沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。思い上がって得意になっている人も、その栄華は長くは続かない。それはちょうど、覚めやすいと言われている春の夜の夢のようである。勢いが盛んな者も最終的には滅んでしまう。まったくもって風の前にさらされて散っていく塵と同じである。
 仏教の根本的な考え方に『三法印』と言って「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」の3つがあります。平家物語の冒頭は、「諸行無常」の理をあらわしており、あらゆるものは、一瞬の間にも変化をくり返していてとどまることがないということを言っています。
 それでは、あらためまして確認しておきましょう。みなさんは、平安の「建学の精神」はと尋ねられたら「ことば・じかん・いのちを大切に」と応えるでしょう。少し違います。「建学の精神」は、「浄土真宗の精神」です。宗祖親鸞聖人のみ教えがあってこその日常の心得として、「ことば・じかん・いのちを大切にする生き方を学びましょう」と呼びかけているのだということを知っておいてください。
 さて、始業式でもお話いたしましたが、本年、本校が創立140周年を迎えるにあたり作成いたしました「平安の願い“三つの大切”」をみなさんにもお配りしたことでありますが、読んでくれましたか?始業式では「ことばを大切にⅠ・Ⅱ」の内容をお話いたしましたので、今日は「じかんを大切にⅠ・Ⅱ」という中学生向けと高校生向けの文章の内容を確認しておきましょう。
 まずは、中学の新入生に向けた文章です。

 いきなりですが質問です。「86400秒」、これは何を示していると思いますか。これは1日24時間を秒数で示したものです。
 では次の質問です。「1095日」、これは何を示していると思いますか。これは、3年間を日数で示したものです。
 1日は86400秒。86400秒と聞くと、とても長いように思えますが、気づけばあっという間に1日は過ぎてしまいます。そして、その1日1日が積み重なれば、3年間で1095日となるのです。みなさんが、卒業するころには、おそらく「早かったなあ」と感じることだろうと思います。
 浄土真宗の第8代宗主の蓮如上人というお方は、次のような言葉を残されました。
 いまだ万歳(まんざい)の人身(にんじん)を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。 (『御文章』)
「人が、1万歳まで生きたということは、聞いたことがない。一生はすぐに過ぎてしまう」という意味です。
「一生過ぎやすし」と言われたところで、ピンとこないかもしれません。しかし、みなさんが今まで過ごしてきた学校生活のなかでも、「もう過ぎてしまったか」と思う場面が、きっとあったはずです。その延長にあるのが、「一生過ぎやすし」なのです。
 時間は止まることなく、まるで、川の流れのように過ぎていきます。当たり前のことですが、過去に戻ることはできません。そう考えると、今日という1日や、今という時間は、人生のなかで再び過ごすことができない、大切な時間だと感じませんか。あと戻りできない時間だからこそ、尊く、貴重なものだと言うことができると思います。
 そして、時間と同じく、私たちを含めたすべてのものは、変化していきます。それを仏教では、「無常」といいます。だから、みなさんも、時間が流れていくように、常に変化しているのです。
 平安の言うところの「今という時間」「青春という時間」「人生という時間」という3つの時間を大切にしてください。みなさんにとって、この3つは、どれもかけがえのない大切な時間です。

 そして、高校の新入生に向けた文章では、次のように記しております。

鴨長明は、一瞬一瞬、変化しているのに、同じように見える川の流れを見て、
 ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結び て、久しくとどまりたるためしなし。 (『方丈記』)
と言いました。時は、刻一刻と過ぎ、同じ時間をもう二度と経験できません。
 大切な人に「じかんを大切に」過ごして欲しいと願っています。目標に向かって、懸命に取り組めていると、「じかんを大切に」できていると感じ、うれしくなります。時には、その場に立ち止まったり、道に迷う時間も大切な時間だと思います。しかし、そのまま何もしないでいる人を見ると、もったいない、何とかしたい、何とかしたらいいのにと思い、「じかんを大切に」と声を掛けたくなります。
 自分自身を振り返ると、何かに失敗したり、うまくいかなかった時、「じかんを大切に」しなければいけないと思い知らされます。試合で敗けた時、もっと練習していたらよかったとか、大切な人を失った時、もっと一緒にいた「じかんを大切に」しておけばよかったと後悔します。そして、同じ失敗をしないようにしたいと強く思います。しかし、失敗した時の気持ちは次第に弱くなり、同じ失敗をしてしまいます。そんなことを何度も何度も繰り返してしまいます。
 親鸞聖人は9歳の春に、「明日ありと思ふ心のあだざくら 夜半に嵐の吹かぬものかは」と詠まれたといわれます。明日があると思い咲き誇っている桜の花が、夜中の強い風に吹き散らされてしまうのと同じように、私たちの命も永遠のものではありません。だからこそ、今、しなければならないことがあるということを意味しています。
 また、お釈迦さまは「世は無常である。怠りなく努力をせよ」と遺言されました。すべてはとどまることなく変化していきます。今日の時間の使い方で、いや、たった今、この一瞬の行動で、全く違う明日になるかもしれません。今、私が行うべきことは何でしょうか。みなさんが平安で過ごす学校生活の中で、大きく成長することを願い、「建学の精神」に基づいて、「じかんを大切に」という言葉を掲げています。どうか「じかんを大切に」という願いの中で、充実した学校生活を送ってください。

 とこのようにあります。毎週一回行われます龍谷大平安での仏参で「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまのご本願を鏡として自分を照らしてみる、つまり、仏さまの鏡に照らして自分を見つめてみる大切な時間です。
 この仏参こそ『建学の精神』に触れる機会であり、そういう機会を大切にすることが、何を隠そう私たちの自己中心的な見方を変えていくことになるのです。
 このような機会を得ていくことで、私たちの見方や考え方に自然と変化が出てくるのです。ここに、相手の悲しみや痛みが自分の悲しみや痛みと感じることが出来る、他人への思いやりの心が育まれているのです。
 どうぞみなさん、仏参では、「南無阿弥陀仏」のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただき、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めて日々を送りましょう。その生き方を心がけることが、お互いに敬い合い、助け合いながら、日々の生活を送ることに繋がるのです。
 現在、熊本で甚大な地震が起こっています。あちらこちらで避難指示や避難勧告がでています。私たちに今できることを探して、たとえ何も出来なくても「寄り添う」という気持ちはしっかりと持ちたいと思います。そして、私たちの身にもいつ何時ふりかかってくるかも知れません。事が起きた時に備えて、来る5月2日の防災訓練(避難訓練)にしっかりと取り組みましょう。
 このことをお願いしまして仏参のお話を終わります。