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平成27(2015)年度 後期始業式 2015年10月07日(水)10時47分

学校長式辞

 みなさん、おはようございます。
 前期考査を終え、4日間の試験休みをおき、本日より平成27年(2015)年度後期がスタートいたします。
 前期の始業式で、みなさんの生徒手帳「生徒心得」の礼節のお話をしました。その一つに「学校への来客に対しては会釈をし、敬意をもってこれを迎え、不快の念を与えないように注意すること。」とあります。
 前期の後半9月23日に中学高校のオープンキャンパスを開催しましたが、昨年に引き続き、総勢3000人を超える来校者がありました。龍谷大平安に興味を持っていただいている方々がこんなにもたくさんいてくださるということです。学校選びの一つに龍谷大平安を考えていただいていることの一番の理由は、実は、在校生のみなさんを見ていらっしゃるからです。
 例えば、みなさんの挨拶は、このオープンキャンパスだけではなく、常日頃から本当に気持ちよく笑顔で挨拶をしてくれると、多くの来校者から言われ、たいへん嬉しく思います。当たり前と思っていることが、実は本当は大切なことで、こういう当たり前のことが周りから評価の対象となるのです。
 始業式にお話したのは、みなさんのこの爽やかな挨拶や笑顔で接することは非常に微笑ましく素晴らしいことなのですが、さて、親や先生、目上の人に対して、今までに反抗的な態度をとったことはありませんかということです。親や先生の言うことを、素直に聞き入れず、反論ばかりしてはいませんか。ということでした。
 実は、本当に賢い人ほど、謙虚で他人に嫌な顔もせずいつも笑顔が絶えないものです。逆に、未熟な者ほど、自分の愚かさを知らず、自分も賢くなったと勘違いしてしまい思い上がりの心が芽生え、他人の話を素直に聞くことができず、相手を見くだすようなこともしてしまうのです。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、小っぽけさに気づきとても謙虚になってきます。自分の知恵や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるばかりです。すぐに善人づらをして、善人づらしていることさえ気づきません。
 龍谷大平安で過ごす時間、特に毎週の仏参は、そんな私の自惚(うぬぼ)れの心を「それでいいのかな」「私は強がりを言っているんじゃないかな」と自分に問いかけ、向き合う修練の場です。この仏参や様々な宗教行事を通して、先生方やいろんな方からのお話を聴聞し、自分の心と照らし合わせてください。そして、自分の思い上がりの心に向き合ってください。そんな思いで学校生活を送ってくれることを願っていますと、申しました。
 正に、一番あてにならないのが、自分中心に物事を見て自分がまるで一番かしこいと勘違いしている私の心なのです。
 それでは、今年も小・中学生と保護者を対象にした学校説明会を開催しておりますが、そのおりに、私の挨拶としてお話ししている内容を少し紹介します。それは、龍谷大平安の「建学の精神」を私なりに、日々どのように生徒たちに伝えてきたか、ということです。
 本校は、1876年(明治9)年、滋賀県彦根の地に「金亀教校」として創立され、本年、5月21日で満139歳となりました。来年創立140年を迎えますが、創立以来140年間、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操の涵養を理想としてきました。現在は、情操教育の中でも、道徳的情操教育の必要性が強調されています。その道徳的情操教育は、普遍的な宗教的情操の裏付けを必要とすると私は考えています。最近の社会科学でも、この点を明確にしてきています。このことも含めて、宗教的情操が人生や社会生活において、いかに大切なのかを考えてみたいと思います。と前置きをしております。
 少し難しいかも知れませんが、簡単に言うと、仏教精神に基づく心の教育がみなさんのこれからの人生や社会生活にどれほど大事かということです。
 私は3年前に校長になりましたが、まず「こころの知性(EQ)」を磨こうと、生徒たちに話しました。その時のベースになったのが、米国の心理学者 ダニエル・ゴールマン という人がお書きになった『EQ―こころの知能指数』と題された一冊の本です。
ゴールマンは「他の人への思いやりの心をもつことは、人生や社会生活では非常に大切だ」と語っています。彼が、「思いやりの心」というとき、英語でコムパッション(compassion)という言葉を使っていますが、これは慈しむ心のことです。つまり、人生や社会生活で大切なことは、他人への思いやりの心をもつことで、その思いやりの心は、すなわち、慈しみ寄り添う慈悲の心なのです。
 だから、龍谷大平安がこれから140年、さらにその先も変わることなく目指すのは、まさに、知・徳・体の知育・体育の土台となる徳育、宗教的情操教育、心の教育の実践なのだということです。平安がめざすのは、「目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の本当の大切さ」に気づくことです。
 具体的には、人が見ているからゴミを拾うのと、人が見ている見ていないにかかわらずゴミを拾うのとは違います。 逆を言うなら、人が見ているからゴミを捨てない、人が見ていなければポイとゴミを捨てるというのは、如何なものかということです。
 先日の学園祭での演劇などは、正にみなさんの目の前で主演・助演・脇役として舞台の上で演じる人もいれば、そこまでの大道具・小道具作り、照明、それ以前の段階でシナリオ作りなど、表には現れない多くの裏方の努力の上に劇が完成します。だからこそ、やり終えた後にみんなで互いの苦労をねぎらいながら涙するのです。もっと大きなところでは、文化祭・体育祭を計画段階から支えた生徒会のみなさんもそうです。見られている見られていないではなく、目に見えない陰の立て役者に支えられて初めて物事は成り立っているのです。
 みなさんに渡している生徒手帳に、これまで記してきました、遍照・智慧・慈悲、そして、その集大成としての今年度の校内スローガン~智慧と慈悲~。これは、相手の心を深く感じ取り、その人の痛みや気持ちが理解できる心を持ちましょう。というのが、みなさんに伝えたい思いです。仏さまの『智慧』に少しでも近づく心を育むことが私の願いです。
 来年で創立140周年を迎えますが、歴史と伝統の中で培ってきた仏教精神を再確認しながら、人として一番大切にすべきこと、さらには本当の意味での心を磨いてもらいたいと願っているところであります。
 このことを、しっかりと胸に刻み、みなさんそれぞれ独り一人が自分色の花を咲かせることができるように今後も日々精進してください。これこそが、龍谷大平安で学ぶことの意義だからです。
 最後に、10月の「今月の言葉」として宗教教育係が掲げてくれました言葉を再確認します。

今を生きて咲き 今を生きて散る 花たち
今を忘れて生き 今を忘れて過ごす 人間たち   坂村真民

 花壇や道端に咲いている花。それを見てあなたは何を感じるでしょうか。坂村さんは、その花と自分自身の姿を重ねたのでしょう。この詩には続きがあります。「ああ花に恥ずかし心いたむ日々」と締め括られています。
 日々の生活の中で、つい忘れがちになってしまいますが、「今という時間」を大切にし、道端の花が美しく彩るように、私たちも自分という花を精一杯咲かせていきたいものです。ふと花を見たとき、「今を忘れて生きていないか、過ごしていないか」と思い出してみてください。
 いよいよ今月から後期の学校生活がスタートします。節目の時期は大切です。しっかりと自分自身の振り返りをして、後期に活かしましょう。そして、勉強や部活動、それぞれの目標に向けて「今という時間」を大切にし、日々精進していきましょう。