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2021(令和3)年11月 御命日法要について 2021年11月16日(火)09時00分

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2021(令和3)年度 御命日法要【11月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

ある結婚式の帰り、ふと「邂逅(かいこう)と別離」ということばが浮かんだ。同時にかなり前の結婚式のことも。挨拶に立った方が、お二人にはこれから別れが始まります、という趣旨の話をされた。こんなところで、とも思ったが、よく考えてみると、出会いがあるということは別れる日の来ることを作っているのだと思えば納得できる。めぐりあうことと離れることは決して別物ではないと思えてくる。仏教では、生者必滅 会者定離と説く。生まれたらみんな滅んでいく。その「みんな」の一語に私が入っていけるか問いたくなる。また、別れの悲しみを避けようとすれば、会わなければよいのだが、そうはいかない。四苦八苦のなかには、愛別離苦、怨憎会苦という苦がある。親鸞聖人は別離の悲しみを深く味わわれた方である。ご幼少の頃に両親と別れられ、流罪にあたっては法然聖人と、また60歳を過ぎた頃の帰洛に際しては関東の門弟たちとそれぞれ別れ、晩年には、信じきっていたわが子・善鸞を義絶されている。私たちはいつまでもいい状態が続くことを願っている。このままでいたいと思う。しかし、現実はそうはいかないし、何が起こるかわからない。その場合、よく口から出てくるのが無常という語だ。「白骨の御文章」には、「すでに無常の風きたりぬれば」というくだりがある。遠くで吹いている風が、たまたま吹いてくるのではない。無常の風は必ず吹くのであり、その風は常に私のまわりを吹いている。

「2021(令和 3)年 11 月 1 日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」

11月 御命日法要
○ 日時 11月16日(火)16時00分~
○ 場所 ※講堂(今年度も密を避けるため礼拝堂から講堂に変更しておつとめいたします)
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ