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平成25年度 仏参講話 中学、高校1・2・3年 2013年05月02日(木)09時57分

平成25(2013)年度

 明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立された、本校は、今年5月21日で満137歳になります。創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳(うた)い、宗教的情操の涵養(かんよう)を理想としてきました。では、宗教的情操の涵養を、具体的に説明しましょう。
 本校では、毎朝仏参をおこなっています。仏参は、文字どおり仏さまにお参りすることをいいます。では、なぜ仏参をおこなうのでしょう。
 私は毎日食事をします。多くのいのちを殺して食べています。それを教えてくれるのが「いただきます」という言葉です。ある幼稚園児が「ぼくの家は給食費を払っているから、いただきますなんて手を合わせなくてもいいんだ」と言って、幼稚園の先生を困らせたそうです。園長先生は「実は私たち一銭も払っていないんです。確かにお金を払っていますが、それはお米やお魚、お肉を扱う人間の手間賃と経費です。私たちは牛さんや豚さんたちには一銭も払ってませんし、海に行ってお魚に餌をあげていません。だから、ごめんなさい、あなたのいのちを殺していただきますと言うのです」と教えてくれました。
 だから、「ごめんなさい」と謝らなければならないのは私のほうです。仏さまのみ教えに生かされるとき、「いただきます」「ごめんなさい」という生き方が恵まれるのです。
 仏参は「私を救わずにはおけない」という仏さまの願いを聞かせていただくためにおこなわれるものです。ましてや私の願い事をかなえるためにお参りするのではありません。静坐(せいざ)して、「合掌・礼拝(らいはい)」をおこなう姿は人間の最も美しい姿だといえます。
 そういう意味でも「仏参」は、自分とむき合う時間と位置づけられるでありましょう。この「仏参」をはじめ様々な「宗教行事」を通して、宗教的なものの見方が、私たちの心に、自然に染み込んでいくのです。こうして、仏教的なものの見方ができることと、素直に人の話を聞く姿勢が自然に身についてくるのです。これこそが「宗教的情操の涵養」なのです。
 先日、京都女子中学校・高等学校の前校長先生から「薫習(くんじゆう)」と題された御本を頂戴いたしました。その中のお話を一つ紹介いたします。

  自然の中で 雨が降るように
  人生の中でも 雨が降る
  そんな時
  あなたを頼ってきた人に
  雨やどりをさせてあげられる強さを
  育てていってほしい
           「心にしみた忘れられない言葉」より

 雨にぬれて困っている人に、そっと傘をさしかけてあげる人はいますか。
 両やどりをさせてあげられる軒先のような人はいますか。

 仏教に布施(ふせ)の行(ぎよう)といって、他の人にものを施したり、教えを説いてあげたりすることがあります。しかし、ものを施すこと以外に施すことのできるものとして「無財(むざい)の七施(しちせ)」と言われる七つの行いがあるのです。「無財」とは、お金や品物のことではなく、真心(まごころ)をもって接することです。

 その一つは「眼施(げんせ)」といいます。やさしい暖かい眼ざしで周囲の人々の心を明るくするように勤めることです。「眼は口ほどに物を言う」とか「眼は心の鏡」とも言われますように、人間の眼ぐらい複雑な色合いを写し出すものはありません。その眼にたたえられた和やかな光は、どんなにか人々をなぐさめ励ますことでしょう。とくに落ち込んでいるときなどは優しい眼差しに見つめられるととっても元気になります。優しい眼差を心がけると不思議なことに自分の心も落ち着いてきます。

 二つ目は、にこやかな顔つきで接する「和顔悦色施(わげんえつじきせ)」です。心からの笑顔にまさる美しさはありません。笑顔はまわりを和ませ、トゲトゲしい対人関係をスムーズにします。自分が苦しい時、辛い時、さびしい時、それを無理して笑うことは苦しいことですし疲れることです。しかし、自分がさびしい時、苦しい時はまわりの人の中にも同じような辛い思いをしている人がいるはずなのです。だからこそ、思い切って、精一杯の笑顔をプレゼントしてあげましょう。あなたの思いやりの心をもらった人は、きっとあなたに感謝の言葉や感謝の眼差しを返してくれるでしょう。それがあなたを支えてくれる力になるのです。

 三つ目は、相手をぬくもりのあることばで励ます「言辞施(ごんじせ)」です。みなさん、振り返ってみてください。今でも覚えているうれしかったことって何でしょう。悲しかったことって何でしょう。友人から、先生から、両親から、あの時、あんなことを言ってもらった。あんなひどいことを言われてしまった。ということはありませんか?おこづかいをもらったとか、何かを買ってもらった、というのもありがたいですが、言葉のプレゼントは相手の心にふかく届き、励まし勇気づけることができます。励ましたい相手、喜ばせたい相手の前で、そっと心を落ち着けて、その人が何をわかってほしいのか、何を望んでいるのか、そっと寄り添ってみましょう。自分の言いたいことや自分の聞いてほしいことでなくて、相手の悲しみや苦しみ、喜びをなるべく共感して、心をこめて接してあげましょう。

 四つ目は、他の人を救うために自分の身を捨てた行いをする「身施(しんせ)」です。みなさんなら、お家のお手伝い、掃除をしたり料理をつくったり、誰かのために何か奉仕することです。冷凍食品よりも、お母さんの手料理がおいしく感じられるのは、そこに思いやりの心がこもっているからでしょう。仏教に、身口意(しんくい)の三業(さんごう)というのがありますが、心(意)や口や体(身)の行いの中でも一番重たいのは、心だといわれます。心が、口や体を動かすからです。時間に追われた忙しい毎日を送っている私たちが人のために何かをするということは、それだけの心がなければできませんね。親や家族、友人から何かをしてもらった時、目に見えるものから目に見えない思いやりの心を感じ取ることができればこんなに幸せなことはないですね。

 五つ目は、「ありがとう」「すみません」などの感謝の心である「心施(しんせ)」です。「ありがとう」という感謝の言葉は、言った人も言われた人も幸せにする素晴らしい言葉だと思います。「ありがとう」というたった五文字ですが、一言いうだけで相手の苦労は報われた気持ちになります。周りを幸せな気持ちにするには、純粋な心、思いやりの心をもって接すれば自分も相手も幸せに生きることができるのです。

 六つ目は、身体を休める場所を施すことで、安らぎを与える所を提供する「床坐施(しようざせ)」です。場所や席を譲り合うような譲り合いの心です。ほとんどの人は意地と我慢で、おれがおれがの我を通そうと小さなことでも譲ることができないものです。意見がぶつかった時、欲しいものがかちあったとき、譲ると負けたと思われるのが嫌だから、ついつい我を通します。くだらぬことに目くじら立てて我を通そうとするのは、心に光のない人です。相手に勝ちを譲れる人こそ、本当の心の強さをもった人ではないでしょうか。

 最後七つ目は、安心して悩みや心配ごとを話し合えるように、温かく迎えてくれる場所を提供する「房舎施(ぼうしやせ)」です。訪ねてくる人があれば、わが家を一夜の宿に貸し、労をねぎらうということですが、これは現代ではだれでもというわけにもいきませんが、労をねぎらう心は、大切ですね。「お疲れ様」「ご苦労さま」は、ちょっとした言葉で、すがすがしい気持ちになるものですね。

 以上の「無財の七施」は、みなさんの心がけ次第で、だれにでもできる施(ほどこ)しなのです。人と人とのかかわりを和ませ、社会生活を円滑にしてくれる基本となる行いです。形あるもの、お金や財産を施すことも尊いですが、大切なものは目に見えないもの、無形の財産を施せる人になりたいですね。

 みなさんが「雨やどりさせてあげられる」強い人に育ってくださることを願っています。

 本日、みなさんには「こころの幹(き)」というノートが渡されたと思います。今日、私の話を聞いて、感じたことを書き留めてくれれば幸いです。これから、毎週、色々な先生方がお話をされます。そのお話を聴聞して感じるところを書き留めていってください。

 これで私の話を終わります。