HEIAN BLOG 宗教教育 BLOG

記事一覧

今月の言葉《宗教教育係》 2014年11月01日(土)08時10分

ファイル 136-1.pdf

十一月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

仏参講話【10月】 2014年10月10日(金)08時53分

2014年10月 仏参講話[学校長]

 みなさん、おはようございます。
 ちょうど約1年前の2013年9月7日、2020年のオリンピックが東京で開催されることに決まりました。その際、本校出身の太田雄貴君も招致アンバサダー・オリンピアンとして、立派なプレゼンを披露してくれました。
 その時、一時、流行語となったのが、招致"Cool Tokyo"アンバサダーの滝川クリステルさんのプレゼンで冒頭に述べられた『おもてなし』という言葉です。滝川クリステルさんのプレゼンはこのように始まりました。
 「東京は皆さまをユニークにお迎えいたします。日本語ではそれを『おもてなし』という言葉で表現いたします。それは、見返りを求めないホスピタリティの精神。それは先祖代々受け継がれながら、現代の日本の文化にも深く根付いています。『おもてなし』という言葉は、いかに日本人が互いに助けあい、お迎えするお客様のことを大切にするかを示しています。」という内容でありました。
 『おもてなし』は、「もてなす」の丁寧語で言葉の通り、「客をもてなす」の「もてなす」からきています。「もてなす」の語源とは、「モノを持って成し遂げる」からきており、お客様に応対する扱い・待遇のことを指します。ここでいう「モノ」とは、目に見えるモノと目に見えないモノの2つを示します。
また、「表裏無し」という、これも字の如く、表裏がない心でお客様を迎えるということです。この2つが合わさって、一般的に『おもてなし』の語源とされています。
 それでは、PHPという雑誌に掲載されていました神経科学者である金井良太さんの文章を紹介し、科学から見た『おもてなし』について、少し考えてみましょう。
 金井さんは『おもてなし』は、人間だけが持つ特別な心です。他者を思いやる気持ちや、日本人特有の『おもてなし』精神について、科学の視点から考えてみるとさまざまなことが見えてきたとおっしゃっています。
 人間には他人の気持ちを感じ取るという素晴らしい能力が備わっています。微妙な表情や仕草や、声のトーンなどから、相手の気持ちを読み取ることで、人と人とのコミュニケーションは成り立っています。メールなどの文字だけの言葉は、複雑な情報を遠くの人へ伝えるのには役立ちますが、心の内で感じていることを共有することはできません。だから、文字だけのコミュニケーションでは、相手が何を本当は感じているのかわからずに不安になったりもします。
 人間がどのようにして他者の感情を読み取って共感するのかという仕組みを脳科学の視点から見てみましょう。脳の話になると、頭の良さや記憶力や集中力などの能力に注目しがちですが、人間の脳の本当にすごいところは、他人の気持ちを感じ取り、他人の幸せまで考えてあげることができるところです。脳の研究をすると、人間の脳は、他者と共存していくため進化してきたことに気付かされます。
 たとえば、脳の中には「顔」に反応する場所がたくさんあります。人間の脳が進化する過程で、顔から得られる情報が重要だったからです。顔を見ることで、その人の心理状態から性格まで、私たちは実にたくさんのことを読み取っています。誰であるかを識別するだけでなく、年齢や性別を推測したり、心理状態を読み取ったりと、顔から得られる情報は多種多様であります。
 普段意識することはありませんが、私たちの脳は、周囲の人の微細な表情や仕草の意味を読み取っています。まるで気温を肌で感じるかのように、意識することなく自然にそうしています。当然、複雑な状況では、相手の置かれた状況をしっかりと考えることで、他者の心の動きを理解することもあります。しかし、日常的には、他人の感情について考えているというよりは、もっと些細なことから自然に感じ取っているのです。
 無意識のうちに他者から読み取った感情は自分にも伝わっています。イライラした気分なんかは、言葉にしなくても、声や態度に出てしまいます。そうすると、嫌味を言い合うまでもなく、お互いに嫌な気分になっていたりします。逆に、楽しい気分も伝わりますから、自分の身の回りの人を楽しませてあげれば、それが自分に返ってきます。だから、楽しい人の周りには、自然と人が集まってきますし、逆に、孤独で不平ばかりを言っている人は、周りから嫌がられ、ますます孤独に陥ってしまうことになります。
 人間は、他人と関わり合う社会という特殊な環境の中で進化を遂げました。他者の顔を認識したり、表情や顔色を伺ったりといった、社会的な機能を高度に発展させたその結果に、現代の人間の脳があります。他人を思いやったり、感情を読み取ったりする心は、人類に共通する脳の特徴なのです。
 だから、『おもてなし』は、人類にとってみんなに共通する行為なのだと思います。他人の気持ちや状態を正しく認識する能力や、相手を喜ばせたいと思う気持ちは、万国共通の本能です。そして、人にもてなされて幸せだと感じることができるのは、そのような行為が、自発的な他者を思いやる心からきているからでしょう。そこに心温まる人とのコミュニケーションが生まれるのです。
 それでは最後に『おもてなし』の心得ポイントを二つ紹介しておきましょう。
 例えばレストランでウェイターがおしぼりを持ってくることであったり、旅館で布団の準備がされていることなどは「サービス」と呼ばれます。しかし、おしぼりを渡すときに「お仕事お疲れ様です」という言葉掛けをしたり、敷かれた布団の横に「ゆっくりとお休みなさいませ」と一言書いたメモを添えたりすることは『おもてなし』と呼ばれます。
 つまり、お客様にとって想定内のことはサービスでしか無く、お客様の期待をいい意味で裏切るような気遣い想定外の気遣いこそが『おもてなし』とされるのです。
おもてなしは、相手のことを慮る気持ちから生まれるものです。
 もうひとつは、滝川クリステルさんのプレゼンにもありましたように「見返りを求めないホスピタリティの精神」つまり、思いやりの精神です。
 外国では、レストランなどで接客を受けるとチップを支払いますよね。あのチップは、接客してくれた店員のサービス料として任意ではありますが支払っているわけです。一方、日本ではどうでしょう。高級レストラン・ホテルからコンビニまで、程度の差はあるにせよ、店員は無償で同じお客様として丁寧な扱いをしてくれます。
 つまり、見返りを求めず、相手を敬い丁寧に扱うことが出来るのは日本人の良いところであり、これこそが『おもてなし』と言えます。ビジネスの世界だけでなく日常生活において、見返りを求めず相手を敬い丁寧に接することは、正に『おもてなし』であります。
 こうしてお話してきました『おもてなし』という精神、『おもてなし』の心とは、さて、どうでしょう。
「相手を思いやる優しい心をつくろう」というのが、実は私がみなさんに常々言っているEQではありませんか。みなさんに自分自身でしっかりと磨きなさいと言っている『こころの知性』ではありませんか。
龍谷大平安で、しっかりと『おもてなし』の心を磨いてください。

今月の言葉《宗教教育係》 2014年10月01日(水)08時51分

ファイル 132-1.pdf

十月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

今月の言葉《宗教教育係》 2014年09月01日(月)12時02分

ファイル 128-1.pdf

九月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門

今月の言葉《宗教教育係》 2014年08月01日(金)10時10分

ファイル 126-1.pdf

八月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門

今月の言葉《宗教教育係》 2014年07月01日(火)08時10分

ファイル 123-1.pdf

七月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語版

平安同窓会大阪会【集いの会】 2014年06月28日(土)09時10分

平成26年度「大阪会集いの会」が6月27日(金)18時より太閤園本館(大阪)に於いて開催されました。藤松喜久次大阪会会長の挨拶に始まりました同窓会は、その後、硬式野球部顧問の藤井教諭より、急遽欠席となりました原田英彦監督からのメッセージが読まれ、本人の姿が見られなかった残念さはあるものの参加者から大きな拍手でありました。終始和やかに時間が流れ、お開きの後は、恒例のホタル観賞の一時を過ごし帰途につきました。お世話いただきました同窓のみなさまにこの場をお借りし感謝申し上げます。ありがとうございました。

御礼 第1回 学校説明会(高校受験生対象) 2014年06月22日(日)15時00分

2014年6月22日(日)午前10時から本校講堂におきまして『第1回高校受験対象学校説明会』を開催いたしましたところ雨でお足もとの悪い中、約350組の生徒・保護者のみなさまにご来校いただき心より御礼申し上げます。

学校長挨拶
 あらためまして、みなさんおはようございます。本日は本校の「2015年度入試の第1回学校説明会」に、休日の朝の早い時間から、また足もとのお悪い中、お越しいただきまして誠にありがとうございます。
 さて本学園は、今から138年前の明治9(1876)年、滋賀県彦根の地に「金亀(こんき)教校」として創立されました。 本校は、創立以来、親鸞聖人のみ教えに基づく心の教育を謳い、宗教的情操教育を理想としてきました。その宗教教育の原点は、何といっても、毎朝、仏さまにお参りする仏参でありますし、年間5回実施される宗教行事であります。それでは、龍谷大平安で何を学ぶのかについて、お話しさせていただきます。
 昨年度の生徒手帳には、阿弥陀さまの光は常に私たちを照らし護(まも)ってくださっているということを示す『遍照(へんじよう)』を記させていただきました。いのちあるものすべてに等しく届けられている仏さまの光に気づくことのできる、そんな生徒に育ってほしいとの願いからこの言葉を記しました。そして、この私を救わずにはおけないという仏さまの願いを聞かせていただくために、仏参や宗教行事が行われるのであります。
 今年度(2014)の生徒手帳に記しましたのは『智慧』であります。私たちが一般的に用いる人間の「知恵」とこの仏の「智慧」について考えてみましょう。
 人間の「知恵」は頭が上がり、仏の「智慧」は頭が下がります。どういうことかと申しますと、人間の知恵は、私たちの方から色々なことを知りたくて、学び、覚え、理解するという知識、教養、学問の世界でありますから、知恵がつけばつくほど偉くなり、賢くなり、ますます頭が上がってきます。
 しかし、仏さまの智慧とは、仏さまの方から私を照らし、目覚めさせてくださる働きですから、仏さまの智慧に遇えば遇うほど、自分の愚かさ、人間の欲の深さに気づかされ、ただただ頭が下がるばかりです。
 龍谷大平安で学ぶのは、知識・教養・学問の世界だけではありません。今まで見えなかったこと、気づかなかったことを仏さまの智慧によって、気づかされ、目覚めさせてくださるのです。
 人間は、知恵がつけば賢くなったつもりになるので、ついつい偉そうになり頭が上がり、素直に仏さまの教えに耳が傾けられなくなります。自分の知恵や力に頼り、自分一人の力で生きていると思いあがっている間は、頭が上がるばかりです。
 しかし、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということわざがあるように、どんな社会の人でも本当に学問や人格が備わってくれば、自分の愚かさ、ちっぽけさに気づき、とても謙虚になってきます。
 お釈迦さまは、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されています。その“ありのままの真実”を見ること、それが「智慧」なのです。
 では「ありのままの真実を見ること」とは、いったいどういうことなのでしょうか。
 たとえば、「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。同じように、「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、物事や人を、比較したり仕分けたりするのも、結局は、自分という“モノサシ”ではかっているのです。
仏教では、この自分の“モノサシ”こそ、あらゆる苦しみを生み出す元であるとされます。
 仏の智慧は、この“モノサシ”を超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあるのです。
 私たちにこの「仏の智慧」さえあれば、愚かな行為は一切なくなるはずです。もちろん、いじめも虐待も、すべての悪行はなくなります。
 本校の建学の精神である「ことば・じかん・いのちを大切に」という三つの大切が日常の心得として実践されることによって、仏の『智慧』を得ることができるのです。それが、こころを開いてものを見ることができるように、仏教的なものの見方ができるように、生徒たちがそんな人格を形成し、立派な人間になることに繋がるのであります。
 まさに、知・徳・体の知育・体育の土台となる徳育、本校では宗育と申しますが、「こころの知性」(EQ)を磨く心の教育の実践であります。龍谷大平安がめざすのは「目に見える華やかさではなく“目に見えないもの”の本当の大切さ」に気づくことであります。
 こころの教育とは、すぐに答えを求めるのではなく生徒一人一人の一生涯を見据えてしっかりとサポートすることでしょう。それは、高校の三年間に、どれだけの質のいい喜びの種を蒔けるかにかかっています。
 龍谷大学付属平安高等学校は、この喜びの種を蒔き、そして花を咲かせることができるように、しっかりとサポートすることをお約束いたします。
 このあと、具体的に説明いたしますので、よくお聞きになって、是非とも学校選びの一番に本校をあげていただきますよう切にお願い申し上げまして、私の挨拶とさせていただきます。
 本日は、お忙しい中、お越しくださいまして誠にありがとうございます。

硬式野球部 京都私学振興会『小野山利雄賞』受賞 2014年06月15日(日)16時30分

受賞者謝意 受賞者代表 燧土勝徳

 誠に僭越ではございますが、各受賞者を代表して一言ご挨拶を申し上げます。只今は、京都府知事山田啓二様・京都市長門川大作様ご臨席の下、京都私学振興会賞という、誠に栄誉ある賞を授賞いただき本当に身に余る光栄でございます。誠にありがとうございました。
 さて、私どものことを話させていただきますと、この度の選抜大会の優勝は、京都勢としては、京都一商(現西京)が昭和23年に優勝して以来、実に66年ぶりとなる、2度目の全国制覇でありました。
 本校をみましても、平安の選抜大会は、ベスト4が最高の成績で、しかも、それは40年前の昭和49年のことです。夏の選手権は、32回の出場で昭和13年・26年・31年と3回の全国制覇がありますが、そこから数えても、58年ぶりに手にした栄冠ということになります。
「平安」は、春夏通算70回という全国最多出場を誇っておりますが、それでも、今回が、4度目の優勝なのであります。全国の頂点に立つということが、どれほど難しいかということでしょう。
 まず、この度の優勝で何よりも、私が嬉しかったのは、さまざまな場面でのインタビューで、選手たちの口から飛び出す言葉は、常に「支え」「お陰さま」「感謝」でありました。このような言葉が、自然に口から出ることこそ、親鸞聖人のみ教えを建学の精神とする「平安」に学ぶ意義を、しっかりと示してくれました。
 また、試合直後の「龍谷大平安」ダッグアウトの様子は、さすがと言えるものでした。閉会式の終盤、ベンチに入れていただき、私がまず目にしたのは、グラブ・手袋・バットケースなど、個人のセカンドバッグにいたるまで、それこそ一糸乱れず整然と並べられていることでした。目に見える華やかさではなく、目に見えないところの大切さを本校硬式野球部は身をもって実践してくれていました。
しかし、本校がこうして「日本一」になることができましたのも、また、各個人や各団体が、本日ここにこうして授賞をいただきましたのも、在り来たりかもしれませんが、その当人の努力はもちろんですが、取り巻く数多くの方々の、暖かいお支えとお力添えがあってのことと思います。そうした多くの方々のお陰であります。あらためまして、厚く御礼申し上げます。
 この結果に慢心せず、先ほど申しました目に見える華やかさではなく、目に見えないところの大切さをしっかりと心に秘め、「勝って兜の緒を締めよ」ではありませんが、一定の目標が達成できたとき、だからこそ今まで以上に謙虚に、そして日々精進していきたいと思います。今後とも変わらぬご指導、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。本日は、誠にありがとうございました。

平成26年度 平安会役員会 2014年06月03日(火)08時06分

校長挨拶

 5月1日の本願寺新報『みんなの法話』に「親のよび声」と題して、次のような内容が記されていましたので、ご紹介いたします。
 ある年の保育園の運動会でのことです。頑張って練習してきた園児たちの晴れの舞台。園児の親だけではなく家族も駆けつけ、応援席では絶えず大きな声援があがっていました。閉会式も終わり、いよいよ解散となりました。
 担任の先生が整列している園児一人一人とお別れの挨拶をしていますが、どの園児もそわそわして心ここにあらずという様子です。そして、先生との挨拶が終わるやいなや、勢いよく走り出し、「お母さん!」「お父さん!」と大きな声を上げながら、家族のところへ脇目も振らずに一直線です。どの園児も満面の笑みを見せ、安堵した様子で帰って行きました。
 驚いたことには、走って行く方向を間違えた園児は一人もいませんでした。よくよく思い返しますと、演目の最中でも、親や家族からの声援に手を振って応え、向けられたカメラにピースサインで応える園児を何人も見ました。園庭を囲む数百人の中からでも、親や家族の声や顔を聞き間違えることも、見間違えることもなく、その居場所を必ず見つけ出すことができるのです。自分の親や家族を間違えない園児がすごいのでしょうか。
 ところで「お母さん」「お父さん」と呼び始めたのはいつ頃からでしょうか。身近にいた人を自分が勝手に親と決めつけ、呼び始めたわけではないはずです。それは「私があなたのお母さんだよ」「私があなたのお父さんだよ」という、親の方からわが子に向けた名のりに始まることでしょう。
 また、この名のりは子どもにとってどんな存在であるのかをも知らせています。そして、早く私の名(お母さん、お父さん)を呼んでほしいという思いをもって呼びかけ続けるのです。この呼びかけはいつもわが子を慈しみ、一度この名を呼んでくれればすぐそばに寄り添い、不安な思いをさせることはないという親心で満ちあふれています。
 ですから、子どもが親を間違えることがないのは、この親心のおかげであり、子どもの口に出た「お母さん」「お父さん」の一言は、両親の強い思いが確かにわが子に届き、まさしくそこにはたらいていることを物語っているのです。
 以下、省略させていただきますが、このあと、親がわが子を思うように、阿弥陀さまは私をわが子であると慈しんでくださる親さまなのであります。と続いていきます。
 10数年前、少年鑑別所・少年院・女子の少年院を見学したことがあります。すべての院長先生方が口をそろえて言われたのが、この子たちにもう少し親が関わってくれていれば、誰一人ここに来る必要は無かったでしょうね。と言う言葉が今も忘れられません。
 まさに、親子の関わりの大切さをつくづく感じていることであります。
 今年度の学校方針を「規律と統制」としました。あえて、ルールとマナーと置き換えております。決して生徒に迎合するのではなく、子どもにはしっかりと我慢をさせる。現代の子どもは昔に比べて絶対的に我慢が足りません。今一度、決められたことをしっかり守ろう。ダメなことはダメと言おう。自分がされて嫌なことは他人にもしない、他人の心の痛みをわかろう。当たり前のことを当たり前にということで新年度のスタートを切りました。
 一年間いろいろとお世話になりますが何とぞ宜しくお願い申し上げます。