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今月の言葉《宗教教育係》 2016年11月01日(火)10時25分

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十一月

今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板

平成28(2016)年度 仏参【10月】 校長講話 2016年10月19日(水)17時04分

 みなさん、おはようございます。
 後期始業式で、本年4月に発行いたしました冊子「平安の願い“三つの大切”」については、今日の仏参で話しますと言いました。今一度、『建学の精神』を確認しておきます。
 龍谷大平安の『建学の精神』は「浄土真宗の精神」です。では、「浄土真宗の精神」とは、生きとし生けるもの全てを、迷いから悟りへと転換させたいという阿弥陀仏の誓願に他なりません。何度聞いても難しいですね。では、具体的にどういう心を持ち、どういう生き方をするのかという日常の心得として、「ことばを大切に」「じかんを大切に」「いのちを大切に」という“三つの大切”を掲げているのです。
「ことば」は「南無阿弥陀仏」とお名号を称えることによって、阿弥陀さまから「必ず救い取るぞ」と呼び掛けられ、誰もが仏さまに願われた存在であることに気付かされること、他人への思いやりの形が言葉で表れます。
「じかん」は「諸行無常」という言葉があるように、ものごとは時々刻々と移りゆき、必ず過ぎてしまうものです。生きている今を大切にしてほしいという思いを込めています。
「いのち」は、阿弥陀さまからの預かりものです。阿弥陀さまの願いのかけられた尊い「いのち」と思えた時、仏さまを悲しませない生き方をしようと考えるようになるのです。だからこそ大切にしてほしいということです。これが龍谷大平安の願いです。
 それでは、前期の始業式と前期初めの仏参で、「平安の願い“三つの大切”」から「ことばを大切に」と「じかんを大切に」の内容を紹介しましたので、いよいよ“三つの大切”の「いのちを大切に」について、
紹介いたします。

中学生に向けた文章で、次のように記しております。

 しゃぼん玉飛んだ 屋根まで飛んだ
 屋根まで飛んで こわれて消えた
 しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
 生まれてすぐに こわれて消えた
 風風吹くな しゃぼん玉飛ばそ

 誰もが一度は口ずさんだことのある童謡「しゃぼん玉」の歌詞です。作詞者は野口雨情(うじよう)さんと言います。
 野口さんが童謡の普及に四国へ行っている時、2歳になる娘さんが病気で亡くなったとの知らせが届きました。
 愛するわが子を突然に失った悲しみの中で、あまりにもはかなく消えたわが子のいのちを想い、この歌を作ったと言われています。このしゃぼん玉を通して、私たちのいのちについて考えてみましょう。
 みんな一人ひとりにいのちがあり、そしてそれは「たったひとつのいのち」です。
私たちにはお父さんやお母さんがいて、そのお父さんやお母さんにも、お父さんお母さんがいます。というように、ずっとずっとつながっていて、そうしたつながりの中で、私たちが生きているのです。ですから、たくさんの方からいただいたいのちと言えるでしょう。
 そのいのちを大切にし、屋根まで飛ぶしゃぼん玉のように大きく成長してほしい、はかない世の中ではありますが、雄々しくたくましく元気に育ってほしい、と願わずにはいられません。そんな願いが、みなさん一人ひとりにかけられているのです。
 しかしながら私たちは、自分ひとりで生きていくことはできません。毎日いただいている食事ひとつをとっても、お米やお野菜を作る人、それを運ぶ人、売る人がいます。そのお米やお野菜で、食事を作ってくださる方々がいます。このようなたくさんの方たちの支えのおかげで、私たちは食事をいただくことができ、たったひとつの大切ないのちを、今日から明日へつなぐことができるのです。
 このように私たちは、多くのつながりの中に生きています。あなたも私も、一人ひとりかけがえのない、尊いいのちを生きているのです。「いただいているいのち」「願われているいのち」「支えられているいのち」。「建学の精神」のもとで謳われている、そのようないのちを生きている自分であることを忘れないでください。

 とこのように記しています。毎週一回行われます龍谷大平安での仏参で「南無阿弥陀仏」とお念仏することは、阿弥陀さまのご本願を鏡として自分を照らしてみる、つまり、仏さまの鏡に照らして自分を見つめてみるという大切な時間なのです。
 最後に、10月の「今月の聖語」に宗教教育係が『ダンマパダ』の言葉を記してくれています。ちょうど、正門を入って直ぐ左の黒板を見てくれていますか?どんな言葉かと言いますと、

 先ず自分を正しくととのえ、次(つ)いで他人を教えよ。

と、このような言葉です。どのような解説をしてくれているかと申しますと、

 ストレートに心に響く言葉だと思います。まさに自分自身のことを言われているような気になりませんか。みなさんは、この言葉を読んで、どのように感じたでしょうか。
 不思議なもので、人の欠点はよく見えてしまいます。私たちは、つい人の欠点や至らないところを指摘しがちですが、自分自身のことは案外見えていないことが多いかも知れません。
 人の言動ばかりに気を取られて、肝心の自分自身を見失ってしまってはいけませんね。人に何か言う前には、必ず一度立ち止まり、自分自身の言動を振り返ってみることが大切です。
 仏陀が述べるように、日々の言動をこの機会にしっかりと見つめ直して、まずは自分自身を正しく整えることに努めましょう。合掌

 どうぞみなさん、仏参では、「南無阿弥陀仏」のお念仏を通して、阿弥陀さまのお慈悲の心を聞かせていただき、少しでも阿弥陀さまを悲しませない生き方を求めて日々を送りましょう。
 その生き方を心がけることが、お互いに敬い合い、助け合いながら、日々の生活を送ることにつながるのです。他人への思いやりの心をもって、日々過ごしていただくことをお願いしまして仏参の話を終わります。

平成28(2016)年度 御命日法要【10月】 2016年10月17日(月)08時08分

【ご案内】               

大悲無倦(だいひむけん) 「正信偈」より

■いつも見守っていてくださる
「悲しまれるよ」
多くの宗教は「いい事をしたら救われるけど、悪い事をしたら救われない」と説きます。しかし、浄土真宗では「いい事をした人も悪い事をした人も、平等に救われる」と説きます。普通に考えると納得がいきません。
ところで、皆さんは今までに、「そんな悪い事をしていたら、罰が当たるよ」と言われたことはありませんか。多分、多くの人が言われた経験があるでしょう。ところが、私は今までに、親から「そんな悪い事をしていたら、罰が当たるよ」と言われたことは、一度もありません。とは言っても、小さい頃から、ずっといい子だったわけではありません。悪い事もしました。そんな時は親から、「そんな悪い事をしていたら、仏さまが悲しまれるよ」と言われました。
浄土真宗では、善悪平等の救いを説きますが、それは決して悪い事をしてもいいと言っているのではありません。悪い事をしたら仏(阿弥陀)さまは、悲しまれるのです。当然、いい事をしたら喜ばれるのです。

善人も悪人も
私は、母親から叱られた時は、あまり反省しなかったけれど、母親を悲しませてしまった時は、深く反省したという、子どもの時の経験があります。
強く叱って正さないといけないこともありますが、悲しみの心に出あうことによって、人生が正されることもあるのです。
阿弥陀さまはいつも私たちのことを心配して見守っていてくださいます。善人も悪人も平等に慈しんでくださいます。さらに言えば、それは、私がいい事をしている時も、悪い事をしている時も、どんな状態にあろうとも、見捨てず見守ってくださっているということなのです。
「正信偈」に「大悲無倦常照我(大悲、倦(ものう)きこと無くして、常に我を照らしたもう)」とあります。阿弥陀さまの大いなる慈悲のはたらきは、飽きたり疲れたりすることなく、常に私を照らし続けてくださっているのです。
私は幼い頃からそのことを、「仏さまはいつも見守っていてくださいます」という言葉で聞かせていただいてきました。そんなあたたかい世界に包まれた人生を歩ませていただきましょう。
(『本願寺新報』2016(平成28)年9月1日「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章)


おかげさまで ~140周年~ ありがとう“感謝”

10月 御命日法要 
○ 日時 10月17日(月)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 石川真也 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年10月01日(土)11時00分

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十月

今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【9月】 2016年09月16日(金)07時45分

【ご案内】
子どもの頃に聞いた話。その時に特別な感銘を受けたわけではないが、どこか心に残っていて、大人になってからあらためて、その言葉の意味に触れることがある。経験を重ねることによって、その言葉がよみがえってくるのだ。
アウトドア愛好家として知られるタレントの清水国明さんの講演を聞いた。浄土真宗の篤信な家庭に育ち、大きな影響を受けたことが内容だった。出身の福井の冬は厳しい寒さで、当時の暖房である囲炉裏を囲みながら、祖父の着物の懐に手足を入れながら暖をとったという。祖父は「国明、おまえが世間からだめだ、役に立たないと言われてもおじいちゃんは味方するからな」といつも優しく語りかけてくれたという。子どもなので意味はよくわからなかったが、大人になってから、「自分の味方がいる。安心できた」と、大きな心の支えになったと語った。
7月26日、神奈川県相模原市の障害者福祉施設で入居者が元職員によって殺傷される事件が起きた。事件の詳細はこれから明らかにされていくが、抵抗できない障害者の命が、理不尽な理由で奪われたことに、大きな衝撃を受けた。報道では「障害者は役に立たない」というのが動機だったという。
私の都合で命を「役に立つ、立たない」というものさしで測る私の姿に、あらためて気付かされ、忘れてはいけない出来事として心に刻んでいきたい。そして、子や孫に「あんたの味方するからな」と語りかけ、いのちの尊さを伝えていきたい。(I)
(『2016(平成28)年8月20日 本願寺新報 コラム「赤光白光」)より


おかげさまで ~140周年~ ありがとう“感謝”


9月 御命日法要 
○ 日時 9月16日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 藤井和乗 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年09月01日(木)08時00分

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九月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

今月の言葉《宗教教育係》 2016年08月01日(月)08時10分

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八月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【7月】 2016年07月15日(金)08時10分

【ご案内】

平成28年7月1日『本願寺新報』に、『平安の願い“三つの大切”』(平成28年4月1日発行)にも載せております『祝婚歌』(吉野弘)が取り上げられておりましたので、一部ご紹介いたします。

■自らの愚かさに気づく
 吉野弘さんの『祝婚歌』という詩があります。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは 長持ちしないことだと 気付いているほうがいい
(中略)
正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい
(以下略)

 けんかや争いが起こるのは、お互いが「自分が立派で正しく、相手が愚かで間違っている」と思っている時です。自分が間違っているけど、相手に文句を言ってやろうという人はあまりいません。戦争も、正義と正義が戦っているのです。もう少し正確に言うと、自分が正義だと思っているもの同士が戦っているのです。「二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい」という言葉は、自らの愚かさに気付くことが大切だということを教えてくれます。
 親鸞聖人がお手紙の中で「世のなか安穏なれ」に続いて、「仏法ひろまれ」と言われているのは、仏の教えによって、自らの愚かさ(自己中心性)に気付かされるところにこそ、「世のなか安穏なれ」と願い、その実現に向かって生きる生き方が生まれてくるからなのです。決して、「世のなかが安穏になるよう、みんなが善人になりましょう」と言われているのではありません。
 本当の意味での善人になれない私。煩悩だらけの愚かな人間でしかない私。けれど、そのことに気付いた時、ただの凡夫ではなくなるのです。人間だから仕方がないと開き直るのではなく、自己中心のあり方を申し訳ないこと、悲しいことだと受け止めた時、そこに、新しい世界が開けてくるのです。
(『2016年7月1日本願寺新報「いのちの栞」龍谷大学非常勤講師 小池秀章』)

おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

7月 御命日法要 
○ 日時 7月15日(金)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 鎌田善弘 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。

今月の言葉《宗教教育係》 2016年07月01日(金)17時00分

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七月
今月の言葉 ・・・ 各クラス教室掲示
今月の聖語 ・・・ 学校正門聖語板 

平成28(2016)年度 御命日法要【6月】 2016年06月15日(水)20時57分

【ご案内】

『2016(平成28)年5月1日(日曜日)本願寺新報 第3234号』より

「いのちの栞」   龍谷大学非常勤講師 小池秀章

 自ら仏に帰依したてまつる
 自ら法に帰依したてまつる
 自ら僧に帰依したてまつる 「三帰依文」

■何を依りどころに生きるか
仏教の3つの宝
 仏教には大切なものが三つあり、三宝と呼んでいます。
 三宝とは「仏法僧」の三つのことで、「仏」は仏さま(真実に目覚めた者)のこと、「法」は仏さまの教えのこと、「僧」は仏さまの教えに従って生きる人たちのことです。この三宝によって仏教が成立することから、古くから大切にされてきました。
 そして、その三宝に帰依する(依りどころとする)ことを「三帰依」と言います。釈尊在世の当時は、「三帰依文」をとなえることによって、仏教教団への入門が許されていました。仏さまの教えを聞こうとする人は、まず、この三宝に帰依することが大切になります。
 では、三宝に帰依するとは、本質的にはどのようなことを意味するのでしょう。それは、自分の生きる依りどころ、物事の判断基準(ものさし)を三宝におくということなのです。 相田みつをさんの言葉に、
そんかとくか
人間のものさし
うそかまことか
仏さまのものさし
があります。私たちは普段、損か得かのものさしで物事を判断しています。しかし、仏さまは、嘘か真かのものさしで物事を判断するのです。自分の損得に関係なく真実を求めて生きる。それが三宝に帰依する意味なのです。
 つまり、三宝を依りどころにするということは、損得をものさしとする自己中心の生き方から、真実を求めて生きる生き方への転換だと言っていいでしょう。
わが身を知らされ
 ちなみに「仏」は、もともと梵語(昔のインドの言葉)で「ブッダ」、「法」は「ダンマ」、「僧」は「サンガ」と言います。また、「帰依」は梵語で「ナモ」、それが漢訳(音訳)されて「南無」となりました。
 音楽礼拝の「三帰依」
ブッダンサラナン
ガッチャミ
ダンマンサラナン
ガッチャミ
サンガンサラナン
ガッチャミ
 帰敬式の「三帰依文」
  南無帰依仏
  南無帰依法
  南無帰依僧
も、ともに同じ意味なのです。
 普段の生活の中で、三宝を依りどころに生きることを忘れないでいたいものです。


おかげさまで 140周年 ありがとう“感謝”

6月 御命日法要 
○ 日時 6月16日(木)16時~
○ 場所 礼拝堂
○ 法話 楠 深水 先生
                         ◎ みなさん、お揃いでお参りください。