HEIAN BLOG 高1学年 BLOG

記事一覧

2月26日 仏参  2020年02月29日(土)17時48分

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 今日は本願寺から布教師の藤澤彰?先生からお話をうかがった。2019年度最後の仏参である。


 「仏法とは自分を知ること」


 「ダイアログインザダーク(Dialog in the Dark)」ということを知っていますか? 「暗やみの中での対話」「五感で感じ取る」というもので、真っ暗闇の中で、視覚以外の感覚で感じ取ることをするセッションです。このセッションには「やみのスペシャリスト」と呼ばれる「聴覚障がい者」が付かれます。
 一人一人がコミュニケーションをとり暗やみをすすみます。やみは怖いものです。でもスペシャリストからの丁寧な指示で、指示されているところまで行きました。「どうぞお座りください」と言われたとき、「やみだから分からないだろう」と座りませんでした。しかしスペシャリストは「何かありましたか? 立たれていますけど?」。思わずビックリしました。どうして分かったのかを尋ねると、座って話をすると、同じ高さで前から声が聞こえてくる。しかし立っていると、声は上から聞こえてくる。その違いで分かったのだと言われました。早速私も試しましたが、よく分かりません。
 フッと「環境が変われば、私たち自身の立場が変わるなあ…」と考えたのです。「視力障がいの人の中で、私1人目が見えていたら」どのように言われるのでしょう。
 つい私たちは自分から見た周囲と比べてしまいます。偏見で他人を見下すことはよくありますね。自分の意見が正しかったのか。もう一度問い直すことが必要ですね。仏法とは自分を知ることです。しっかり問い直してみましょう。
 
 さて、みなさんは何を感じたのだろう。藤澤先生のお話はとてもわかりやすかったと思う。ただ理解をしても、実践をしないと全く駄目なのではないか。このことは簡単なことで難しいことだ。
 今日で1年生の仏参は終わる。また2年生で新たな先生方のお話を聴く機会に恵まれる。次年度も遅刻をせず、しっかりと仏参を勤めて欲しい。

2月12日 仏参 2020年02月12日(水)13時25分

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 今日は社会科の梅井先生からお話をうかがった。

 「勝早日(かちはやひ)」(戦う前から勝利している)

 合気道の考え方で「正勝(まさかつ)」「吾勝(あかつ)」「勝早日(かちはやひ)」があります。開祖の植芝盛平さんが古事記から引用をしたものです。この中の「勝早日」のことについてお話をしたいと思います。

 「勝早日」とは、「戦う前から勝利している」という意味です。いざとなってからでは遅い。いつ火の粉が降りかかっても対応できる力を持つという意味です。さてこれは武道だけで考えることではないはずです。みなさんの場合、「勉強」「人生」にも必要なことではないでしょうか。

 勉強というところでは分かりやすいものです。ここでの勝負どころは試験です。入試や考査などですから、日は分かっています。入試会場へ行ってから「さてどうしようか…」と考えても仕方ないですよね。日々勉強をして備えていますよね。
 一方で「人生」はどうでしょう。人生の勝負どころとは…。分かりませんよね。またそれがいつくるかも分からない。だから慌てふためくのです。釈尊は先日の涅槃会のお話ではないのですが、同じことを言っておられます。「日々怠ることがあってはいけない」と。だから日々の努力の積み重ねが大事なのです。

 平安の3つの大切「ことばを大切に」「時間を大切に」「いのちを大切に」があります。このお話は「時間を大切に」ということなのです。どうか自分の生活を見直して下さい。
 
 さて、みなさんは何を感じたのだろう。梅井先生のお話になった「勝早日」を忘れてはいないだろうか。あと残すところ授業は30日もない。今ひとつ振り返り、自分の生活を見直して欲しい。梅井先生の話をじっくりと味わって欲しい。

2月5日 仏参 2020年02月11日(火)09時53分

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 今日は12組、13組副担任の吉岡が話をした。

「じっくり自分と対話する力をつける」

 多くの先生方が「立ち止まって考えよう」「振り返ってみよう」ということを仏参の中で話されていた。果たして実践した人はどれくらいいるだろう。人は「切り替えて考える」「くよくよしないで…」という言葉で物事の本質を見ない。「立ち止まる」ことは問題から目を逸らすことではない。その問題と格闘することだ。格闘するためには、傍らに「何も言わず話をそっと聴いてくれる人が必要」なんだということを理解して欲しい。問題から逃げたいときは逃げたら良い。でも必ず人生のどこかで「立ち止まって考えるとき」はやってくる。

 L・Vベートーベンは「Durch reiden zuder Freude」と言った。彼の人生は決して幸せではなかったのだ。「諸君、喜劇は終わった。喝采せよ」という言葉を残して死んだとロマンローランの『ベートーベンの生涯』に書かれている。不幸は本当に苦しいものである。しかし簡単に答えを出すのではなく、じっくり自分と対話する力をつけて欲しいと考える。
 
 朝からしんどい話だったかもしれない、吉岡の話をじっくりと味わって欲しい。

報恩講 2020年01月18日(土)15時52分

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 今日は報恩講。報恩講とは、親鸞聖人の教えによって、阿弥陀如来の教えに遭わせていただいたご恩に対し、感謝の気持ちをもって、聖人のお亡くなりになった日を機縁に聖人のご威徳をしのぶ行事である。
 今日は西本願寺より布教使の伊東順浩先生に来校頂き、お話を伺った。伊東先生は以前、本校宗教科の教員であり、私たちともご縁の深い先生である。

 「比べないことの大切さ。ありのまままの自分を大切にしていこう」

 「81個のミカンを3人に分けると、1人あたり何個のミカンがもらえるでしょう?」という問いがあります。みなさんはどう答えるでしょう。ある子が「ミキサーでジュースにするので1杯」と答えたようです。その解答をみた先生はカンカンになって怒り、保護者を呼びつけたようです。家に帰り、なぜそのような答えを書いたのか子どもに問うと、「ミカンの大きさは違う。それに甘い、酸っぱいもある。なら平等に分けるのであれば、ジュースにして1杯というのが良い。それだけなんだ」。
 つい教科の勉強で27個という答えを私たちは子どもに求めますが、この子どものように、みんなが等しく味わうようにするための分配する方法は間違ってはいません。このような視点を私たちは忘れているのかもしれません。
 さて浄土真宗は仏さまの名前を呼ぶ宗教でもあります。「南無阿弥陀仏」ですね。阿弥陀さまを呼んでいるわけです。では人はどのようなときに「名前」を呼ぶのでしょう。大切なことを伝えるときには、必ず名前を呼びますね。「きみ」や「おまえ」ではないはずです。私たちは阿弥陀さまに大切なことをお伝えしようとしているのです。阿弥陀さまは「ハイハイ」とお答えし、耳を傾けてくれます。それは「みんな平等に」なのです。どのような人であっても耳を傾け、常に私たちのことを気にしてくださっているのです。
 あるとき、子どもが骨折をしました。大慌てで病院へ駆けつけ、家族から様子を聴くと崖から転落をしたようです。首の骨が折れていれば、下半身不随ということだってあります。麻酔から目覚めて子どもに、「大丈夫か」と問うと、「腕を骨折しただけだよ…」と答えてくれました。ホッとして「骨折したのはどっち?」と続けて問うと、「左手」と答えてくれました。「左手で良かった。利き手だったら苦労しただろうしなあ…」と言いました。しばらく経ってから、「左手で良かったってみんなから言われる。でもね、左手でも右手でも僕の腕なの。どっちであっても嫌なんだ。良かったことってないんだけど…」とぼやいていました。また私はドッキリしました。そうですよね。自分の身体なんですから「右手より左手」だとか、「この状況は○○さんに比べずっとまし」なんて言ってられませんよね。つい私たちは自分と他人を比べてしまいます。仏さまはそうではありません。ありのままの自分を見つめてくださっているのです。「痛いよね」なんです。
 自分を他人と比べるのではなく、ありのままの自分を輝かせて生きていってください。

 みなさんは何を感じたのだろう。私たちはつい「比較」してしまう。体力でも、成績でも…。比較し、慌てて勝手に判断をして、サボったり、実力もないのに戦略も立てず「単に勉強」をする。何か忘れてはいないだろうか。
 「ありのままの自分」という言葉は、仏参で多くの先生方がお話の中で言ってこられた言葉だ。では本当に「ありのままの自分」を理解しているのであろうか? じっくり考えて欲しい。 

1月15日 仏参 2020年01月15日(水)21時44分

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 今日は1月17日の報恩講で唄う「報恩講の歌」について学んだ。

 「報恩講」とは宗祖親鸞聖人が亡くなられた日である。17日は「報恩講」の宗教行事だけで教科の学習はやらない。ただ教科の学習をやらないから行事へ参加しなくて良いのではない。親鸞聖人が我々に伝えたかったことを宗教科の授業で学んでいる。知識の学習も必要であるが、「あなたの傍らには、阿弥陀様も、私(親鸞)もともにいますよ」という声を聴くことが出来るだろうか。報恩講のご法話の中で、その声をしっかり聴きたいものである。

1月8日 仏参 2020年01月08日(水)18時19分

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 今日は6組、7組副担任の西川先生からお話をうかがった。

 「情報の真偽を確かめよう。そして相手を思いやる気持ちを持ってコミュニケーションをはかろう」

 インターネットがみんなが利用するようになりわずか20年。情報は自分の雑誌や新聞などから得ていた時代から、インターネット上を探し回る時代になりました。みなさんはスマホを媒体として、SNSでやりとりをしたり、電話などで連絡をとっていますね。通信手段も大きく変わり、我々のような「家の電話」からスマホに変わりました。我々が高校生の時代、友だちの家や彼氏、彼女の家に電話をかけるときはハラハラしたものです。本人が出てくれるよりお父さんやお母さんが出られる。とても緊張をしていたことを思い出します。

 さて新聞を読んでいると、コミュニケーションのことが書かれている記事を目にしました。内容は次のようなものです。
 中国人と日本人サラリーマンが会社で会話をしていました。エレベータにのり、その続きの会話を中国人は大きな声でやったのです。日本人は「この話はエレベータを降りてから…」と遠慮がちに言ったそうです。エレベータを降りてから中国人は、「なぜ会話を止めるの? 最大限に貴方へ配慮をしたのに…」。日本人は「なぜ貴方が大声で話すのか理解できない。エレベータ内では、他の人を配慮したのに…」。どちらも配慮しているのですが、中国人は目の前の相手に配慮する。日本人は、その他大勢を配慮する。文化の違いですね。お互いに配慮し合っているのです。

 我々が高校生時代、情報は「なかなか手に入らないし、手に入いるのが遅かった」のです。みなさんは「沢山の情報があり、それを探し出して早く自分のものにする」という生活を送っています。しかしその情報が「正しいものか」「間違っているものか」を判断する力がなくてはなりません。
 情報の真偽を確かめ、そして相手を思いやる気持ちを持ってコミュニケーションをはかっていって欲しいと思います。
 
 さて、みなさんは何を感じたのだろう。西川先生のお話になった「他人への配慮」「情報の真偽」を忘れてはいないだろうか。情報科の授業で学習をしているはずだが、実践でき
ているか否かを考えて欲しい。くだらないSNSでのやりとりからのトラブルは、もう卒業しようではないか。西川先生の話をじっくりと味わって欲しい。

12月18日 仏参 2019年12月18日(水)19時27分

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 今日は5組、8組副担任の大西先生からお話をうかがった。

 「人生を楽しめ!」

 わずか22年しか生きていない私が、「人生を楽しめ!」というお話をすることが良いことかどうかはわかりません。しかしみなさんにはしっかりと理解して欲しいのです。

 私は、「人生」とは「日々の生活の積み重ね」だと考えています。みなさんは理解できているでしょうか? 日々の生活は時間によって刻まれているわけですから、平安の3つの大切である「時間を大切に」ということは、しっかりと実践をしていって欲しいと考えています。

 私は次の3つのことが大切だと考えています。
 1つ目は「何か熱中できるものがある」ことです。
 私は中学校の時代からバトミントンをやっていました。正直うまくはなかったのです。でも熱中をして高校でも取り組み、大学でもバトミントンのサークルへ入りました。監督さんやチームメイトにも恵まれ、大きな大会へも参加でき入賞をしました。大学を卒業した今でも、大切な人たちだと思っていますし、交流も続いています。本当に良い人に恵まれたと感じています。
 2つ目は「常に学び続ける」ことです。
 みなさんも得意な科目、不得意な科目があるでしょう。「もう良いわ…」と後ろ向きになると、そこで伸びていかなくなります。たとえ不得意教科であったとしても、努力すれば、それに応じた結果が得られます。何もしないであれば結果は得られません。当たり前のことです。このことは、「学校」というところだけでなく、社会人になれば自分の職場でやっていかなくてはなりません。
 3つ目は「周りの人を大切にする」ということです。
 私たちは1人では生きていけません。家族、親友、クラスメイト、教員…。沢山の人が私たちの周りで生活をしておられます。でもこのような身近な人たちばかりではありません。通学途上のバスの運転手さん、お客さん、道路ですれ違う人たちのことです。人間は社会とつながって生活をしています。周囲に迷惑をかけないように生活をしていきましょう。
 
 さて、みなさんは何を感じたのだろう。大西先生のお話になった「何か熱中できるものがある」「常に学び続ける」「周りの人を大切にする」。入学当初はみなさんが大切にしていたはずだ。その思いを今でも持っているだろうか? 今年の仏参は今日で終わった。この大西先生の言葉を振り返ってみないか。じっくり考えて欲しい。 

12月11日 仏参 2019年12月12日(木)13時21分

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 今日は4組、9組副担任の藤井先生からお話をうかがった。

 「自分の長所、他人の長所が見え、それを認めていますか?」

 今日は「今月の言葉」を引用しお話をします。
 先月の「今月の言葉」を覚えているでしょうか? 「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」でした。これは阿弥陀経に書かれているものです。「人間みんな違う。中にはよく似た人がいるかもしれない。でも誰一人として同じ人生を歩んできたのではないよ」だから「自分の光を灯せば良いんだよ」という意味です。そのためには長所が見えてこないといけません。その長所も「自分」だけでなく、「他人」のものも見えて、認めていけるかどうかということです。

 私は硬式野球部の顧問をしています。グランドにスカウトの人がおいでになることがあります。あるとき、非常に熱心にグランドまで通っておられた人がいたので、「どうしてこれほどまでに通われるのですか? 試合の場面だけを見れば良いではありませんか?」と尋ねたことがあります。その人は次のように答えました。「表のプレーより、自分(その選手)がやるべきことをやっているのか見たいのです」と。ある選手を見ながら、「あの子はちゃんと仕事をしている」とおっしゃいました。この生徒は野球がうまい子ではありませんでした。しかしバックアップをしっかりこなしていたのです。そこをそのスカウトの人は褒めたのです。この生徒の守備としては当たり前のことだったんです。しかしこの生徒の仕事をどれだけのグランドで練習をしている人が見抜けていたのでしょう。気づかない人もいたかもしれません。気づく人は必ずいます。自分らしく輝いて欲しいと思います。

 ただ自分らしく輝くこと(個性)と我が儘は違います。自分一人で生きているのではありません。必ず協調性が必要です。最低限のルールはしっかり守った中で、お互いの長所を尊重していきましょう。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。人間には「個性」を大切にして欲しいという藤井先生の思い。その個性は他人にもあるのだから、その他人の個性も尊重して欲しいということだった。「他人の長所を認めることが出来ているか」。まずはじっくり考えて欲しい。 

成道会 2019年12月06日(金)16時33分

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 今日は成道会(じょうどうえ)。お釈迦様がお悟りになった日である。ゴーダマ・シッダッタが「仏陀」となられた日である。この日を祝い、改めてお釈迦様の教えについて触れていこうとする大切な行事日である。
 今日は西本願寺より布教使の龍田智先生に来校頂き、お話を伺った。

 「真実をありのまま見ましょう」

 私は今治から京都へ出てきました。そして大学の時に浄土真宗本願寺派の僧侶となりました。わずかな時間ですが、お話を聴いてください。今回みなさんと平安中学、平安高校でお出逢いできたのも、仏教がなければお目にかかっていません。こうしてお目にかかれたのも、お釈迦様がお悟りになって、仏教を広めてくださったからです。今日の成道会のおかげですね。ではどのようお悟りだったのでしょう。これは「真実をありのままに見ましょう」ということです。

 事例を話してみましょう。

 1つめはご近所のAさんのお話です。Aさんはお元気な方です。お寺のお参りだけでなく、行事も沢山参加されています。その行事で旅行へ行くことになりました。90代のBさんは足も悪く、いつも一番最後をノロノロと歩かれます。AさんはそのBさんにイライラしていました。だってみんなの行動の足かせになるように思ったからです。ある日Aさんは怪我をして松葉杖をついて歩かないといけなくなりました。やはり行事で旅行に行くことになったのです。みなさんは先に先に歩かれていきます。ところがBさんは、Aさんを気にして、先に歩いてもずっと待ってくださったようです。Aさんは「なんて恥ずかしいことを考えていたのだろう」と思ったということです。

 2つめはひび割れた壺の話です。水を汲みに行くときに、ひび割れた壺を使っていました。もちろん元の場所に戻ったときは、壺の中には半分も水が入っていません。壺は恐縮をしたそうです。自分が完璧ならば…。もっと多くの水を運ぶことができたのに…。水を汲みに行く道中に綺麗な花が咲いていたようです。実はこの壺からこぼれ落ちた水により、この花が開花していることが分かったのです。ひび割れた壺は恥じることはありませんよね。

 最後の話は私自身の話です。高校時代野球部に入って甲子園を目指していました。同級生の中で、選手ではなく「マネージャー」や「塁のコーチャー」がいました。同級生がなってくれていたのです。当時私は試合にも出られるくらいの実力がありました。そのことで天狗になり、彼らを下に見ていました。チームのことを思って、ゲームに参加していることが理解できなかったのです。今、出逢えば「あのときは悪かった」と謝るのですが、彼らは私を責めようとはしません。本当に恥ずかしい話です。

 私たちは、自分の価値観で人を捌いていきます。果たしてそれが正しいことなのでしょうか。この3つのお話からも理解できるでしょう。仏様は自分の価値観で人は捌きません。人には与えられた仕事があることを知っておられるからです。だから私たちは「真実をありのままみつめる」ことをしなければならないのです。

 みなさんは何を感じたのだろう。「ありのままをみつめる」ことは本当に難しい。「成道会」を通し、じっくり利己主義者であろう「自分」について考えて欲しい。

12月4日 仏参 2019年12月06日(金)14時35分

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今日は学年部長の森本先生からお話をうかがった。

 「限界は自分が決める。やってみようと思えば、出来ることもあるだろう」

 2000年頃の卒業生のお話です。
 私はハンドボール部の顧問をしています。ハンドボールはオフェンス、ディフェンスともに激しい競技です。これからお話をする生徒は、男子校時代の人で片腕がない人でした。当時は完全下校もなく、クラブもそれは厳しく指導をしており、途中で根をあげる人が多くいました。新入生の彼は、その当時の厳しいクラブに「ハンドボール、片腕がなくても出来ますか?」と言って訪ねてきてくれたのです。私は「大丈夫。気の持ちよう。出来るよ」と伝えると、彼は決心をして入部をしてきました。念のため連盟にも確認をとり、全く問題なく競技が出来ることを確認しました。
 ただ実際私自身が片腕だけで体験し、なかなか難しいことが分かりました。「大丈夫。気の持ちよう」とはいったものの、「こりゃ無理だわ…」と思ったのでした。
 それから練習が続きます。きつい練習です。でもこの年は例年にないことが起こりました。それは次の2つのことです。

1 退部する生徒が減ったこと
2 口うるさく言っていたパスが出来るようになったこと

 片腕がない彼が必死で練習をしているわけだから、他の生徒は「弱音」があげられません。また片腕がない彼に、的確なパスを渡すために、日頃から口うるさく言っていたところへボールがいくようになったのです。今までは「言っても無理…」とあきらめていたのですが、意識したら出来るのです。彼がいたチームはメキメキ力をつけていきました。そして最後の公式戦では、彼がシュートを打てるように、チームメイトが必死に動いたことを今でも憶えています。もちろん、このような良いことばかりがあったのではありません。

 彼は卒業間際に連盟から優秀選手として表彰されました。その後ある大学へ進み、その後もハンドボールを続けてくれていました。「到底出来ないだろう…」と勝手にこちらが限界を作っていたのです。「限界は自分で決める。やってみようと思えば、出来ることもあるだろう」。みなさんも可能性を信じて懸命に生きていきましょう。

 さて、みなさんは何を感じたのだろう。人間には「限界」がある。でもその「限界」を決めるのが「自分」なのだという森本先生のお話。「限界」も考えず、ただ「ダラダラ」と過ごしていたら、それだけで終わるのかもしれない。まずは「自分の限界」をじっくり考えて欲しい。