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令和3年度 宗祖降誕会・開校記念式 2021年05月21日(金)16時00分

 今日は本校において、宗祖降誕会並びに開校記念式を実施しました。5月21日は、浄土真宗をお開きになられた宗祖親鸞聖人のご誕生をお祝いするとともに、開校した記念すべき日でもあります。

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 1限目は中学・高校1年生の部で、中学生は教室、高校1年生は講堂に分かれて出席し、摂津市の野田茜先生(本願寺派布教使)のご法話をいただきました。

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 降誕会は親鸞聖人のお誕生日であり、親鸞聖人がこの世にお出ましくださったからこそ、阿弥陀さまの教え(南無阿弥陀仏)に出遇わせていただける。野田先生は相愛高校(大阪にある宗門校)のご出身で、阿弥陀さまのお話を聴き、「私は一人じゃなかった、阿弥陀さまがいてくださっている。私は一人じゃない」と、「南無阿弥陀仏」と声に出すことで心が落ち着くとおっしゃいました。そんな風になったのは相愛高校に通われたからであり、何十年経って同窓会があっても、同級生も覚えていることは阿弥陀さまのことだそうです。その阿弥陀さまのお心は、お経には「大きな慈悲のお心である」と書かれていて、慈悲の「慈」は慈しむ、「悲」は相手の苦しみを除いてあげたいというお心です。それは相手への痛みの共感、苦しみの共感であり、1人でも「辛いね、悲しいね」と思って下さる方がおられたら、私たちは一歩前に進んでいける世界がひらけてきます。
 ここで、野田先生が高校1年生のときに聞かれたお話です。ある広島の高校で起こった出来事で、水泳の学級対抗リレーが行われるにあたり、選手を4名選ばなければならなくなりました。まず3人はすぐに決まり、残りの1人に足が不自由なA子さんが選ばれました。いじめっ子の番長が「彼女を無理やり泳がせてみんなで笑ってやろう」という意図のもと、彼女を推薦したからです。そして学級対抗リレー当日、A子さんは一生懸命泳ぎましたが、なかなかゴールまでたどり着けません。そんなとき、1人の背広姿の男性がプールに飛び込み、「大丈夫、大丈夫、あともう少しだから」と言う励ましを受け、A子さんは無事に25メートルを泳ぎ切りました。同級生たちも途中からA子さんを応援するようになり、ゴールしたときはみんな涙を流したそうです。その背広姿の男性は、その高校の校長先生だったのです。
 私たちもいろいろ辛いことや思い通りにならないことはたくさんあります。そんな涙する私のところまで飛び込んでくださったのが阿弥陀さまです。阿弥陀さまはどんな形で私のところに来てくださるのか。それは「南無阿弥陀仏」という声であり、私たちが自分の思いを言葉で伝えるように、「あなたは一人じゃないよ、あなたのその苦しみ悲しみを共に背負って、一緒に歩んでいるこの阿弥陀がおるよ」ということを伝えるためであると、野田先生はお話されました。


 3限目は高2・高3年生の部で、高校2年生が教室・礼拝堂、高校3年生が講堂で出席し、広島の中村啓誠先生(本願寺派布教使)のご法話をいただきました。

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「相手に合わせることが優しさ」というテーマでした。中村先生は元々お寺のご出身ではなく、高校生のときに『歎異抄』を読んで感動し、親鸞聖人に憧れたそうです。そして、親鸞聖人を「この人は絶対自分を拝めと言わないお方」とみて、親鸞聖人が「人間(親鸞)の言葉を当てしてよりどころにせず、ただあなたのところに届いている阿弥陀さまのお言葉をよりどころにしていくこと」を示されたのだとおっしゃいました。
 次に、中国の伝説上の鳥「鸞」のお話をされました。「鸞」は中国の伝説上の鳥であり、綺麗な羽根を持つ美しい鳥です。それに対して、雛の方は醜い姿をしています。そのため、雛は「お母さん」と認識してくれず、「鸞」は泥の池にわざと泥で汚し、同じ姿になって雛に与えたそうです。そのことから、中村先生は「親というのは有り難いものであり、子供のためなら汚さは厭わない」とおっしゃいました。
 阿弥陀さまは「阿弥陀如来」と言います。如来の「如」という字は、すべてのいのちはひとつながりになっていると見ることができる、仏さまの智慧の眼で見られた本当の世界と言う意味です。「来」という「来る」ということで、遠くにおられるのではなくて、私たち一人一人のところに届いて、いまはたらき続けてくださっています。中村先生は、「相手に合わせて降(くだ)っていくのが優しさというものの形だ」とおっしゃいました。そして、私たちが「南無阿弥陀仏」と拝ませていただくのは、私に降(くだ)って来ておられる阿弥陀様を実感するためです。「そういう阿弥陀さまと一緒だと思ったら、相手が苦しんでいるときに、なんとか相手に関わろうとして目線を合わせてほしい」と、中村先生は生徒たちへメッセージを込められました。

2021(令和3)年5月 御命日法要について 2021年05月19日(水)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【5月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように


 5月5日は「こどもの日」。子どもをモデルにした伏見人形に「饅頭喰い人形」がある。半分に割ったまんじゅうを両手に持った男の子の立ち姿で、伏見人形を代表するものの一つ。ある大人が「おとうさんとおかあさんと、どっちが好き?」とたずねたところ、子どもはまんじゅうを二つに割って、「おじさん、このまんじゅう、どっちがおいしい?」と問い返し、大人は二の句が継げなかったという。何事も二つに分けて、どちらか一つをとろうとする人間の思考パターンをいさめているのだろう。
 浄土真宗七高僧の第六祖・源信和尚(げんしんかしょう)にも似た逸話がある。幼い頃、川で鉢を洗っている僧を見て、「お坊さま、むこうの川のほうがきれいですよ」と教えたところ、その僧は「すべてのものは浄穢不二(じょうえふに)。きれい、きたないは凡夫(ぼんぶ)の心の迷い」とこたえた。幼き日の和尚はすかさず「それじゃ、どうして鉢を洗うの?」と問い返した。この時の僧の勧めによって、和尚の出家の話が決まったという。 
10円硬貨で知られる平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像は、寄木造りの大成者・仏師定朝の作で、以後の仏像は定朝による童顔を踏襲したといわれる。童顔こそ、この世の汚れに染まらぬ純粋な仏の境界に最も近いということだろうか。大人に成るということは、成長とともに、いろいろな濁りに身を染めることでもある。こどもの日は、大人が子どもに学ぶべき日でもある。

「2021(令和3)年5月1日(土) 本願寺新報『赤光白光』より」


5月御命日法要
○ 日時 5月19日(水)13時30分~
○ 場所 講堂
○ 勤行(讃仏偈)のみ

令和3年度 花まつり 2021年05月08日(土)16時00分

今日は花まつりをお勤めし、今回は校内で実施することができました。

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花まつりは、仏教をお開きになられたお釈迦さまの誕生をお祝いする行事です。4月は入学式などの行事と重ねるため、平安では1ヶ月遅れて行っています。

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1限目は中学生・高校1年生の部で、中学生が講堂、高校1年生が各教室並びに礼拝堂(講堂から配信)でした。そして、ご講師である田坂亜希紀子先生(浄土真宗本願寺布教使)のご法話をいただきました。
 田坂先生は、3年ほど前にウズベキスタンに旅行されました。ウズベキスタンはとても平和な国で、とても乾燥した地域のため雲がない澄みきった空でありました。そして、第二次世界大戦の時にシベリア抑留で連れてこられ、強制労働を強いられた日本人墓地があり、884名の方がウズベキスタンの地で亡くなったそうです。ガイドさんのお話では、彼らが作ったナボイ劇場(舞台公演などを目的とした建物)があり、1966年に大きな地震が起こった際、ナボイ劇場は被害を受けず多くのウズベキスタン人の避難場所になったそうです。ウズベキスタン人にとって「私たちのいのちを守ってくれた」という思いがあり、今でも日本人墓地を守りぬいているということでした。
 そのお話を通じて、田坂先生は「歴史の勉強をしてほしい」という思いを語られました。今までに長い歴史があって、生きてこられた方たちがいる。生きていくなかで、迷ったり悩んだりすることがある。そんな時、どういう風に生きていったらいいのか。その道しるべになるのが歴史であり、そのよりどころとなるのが仏さまの教えであるとおっしゃいました。


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3限目は高校2、3年生の部で、高校2年生が講堂、高校3年生が各教室並びに礼拝堂(同じく講堂から配信)でした。そして、ご講師である鴬地清登先生(浄土真宗本願寺布教使)のご法話をいただきました。
 鴬地先生は、最初に「天上天下唯我独尊」の意味を説明されました。この言葉は事実ではなくて真実を伝えてくださっているものであり、決して他人と比べて尊いと言ったわけではなく、誰とも比べることなく誰もがかけがえのないいのちを生きているだということです。そして、お釈迦さまは「いつでもどこでもどんなときでもあなたを救う仏さまがおるぞ」と教えてくださっており、それが阿弥陀仏という仏さまなのです。
 続いて、鴬地先生は「プロフェッショナル仕事の流儀」というドキュメンタリー番組を紹介されました。横浜市のゴミ収集員をされている岳(たけ)裕介さんという方にスポットを当てた内容でした。横浜市は人口370万人で、年間のゴミの量は122万トン。全国の市町村の中で一番多い地域で、岳さんは深夜2時から仕事をされ、勤めた当初は「臭い」とか「汚い」という声が聞こえてくる悩まれる時期があったようです。しかし、偏見の中にある仕事ではあるけれど、わかってくれている人がいることに気づかれた岳さんは、「ゴミ収集員だということを卑下していたのは自分自身であり、自分が変わらなければまわりは変わらない」と思われました。
 「自分だったら口には出さないけれど、心の中で臭いとか汚いと思ってしまうかもしれない」と思われた鴬地先生もまた、「そういうゴミを出したのは誰かというと、この私なんだ」ということに気づかされたとおっしゃいました。
 最後に、「仏さまに手を合わせるということは、仏さまの智慧をいただくということであり、知識よりも智慧を学ばせていただくことが大切だ」と語られました。

2021(令和3)年5月 今月の聖語・言葉について 2021年05月01日(土)10時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します・

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
田あれば田に憂へ 宅あれば宅に憂ふ  
                     『ダンマパダ』

 現在スマートフォンの所有率は、高校生で約九一%、中学生で約八〇%と言われています。一日の平均使用時間は、高校生は四時間で、中学生は三時間。情報教育が少しずつ進んできたとはいえ、適切に利用できない人が少なくありません。中にはネット依存に陥(おちい)る人もいて状況は深刻で、治療部門を設置する病院もあるほどです。
聖語の意味は、田や家を持っている者は、それらをもつことでかえって悩みがふえるということ。もたなくても悩みを抱えることにもなりますが、問題は所有(しょゆう)の有無ではなく、際限(さいげん)なく求める自らの煩悩にこそあります。問題の根本は自分の内にあるという自覚が、憂(うれ)いを解決する第一歩。ブッダはそのように説きます。
スマート(smart)は賢いという意味ですが、スマートフォンの使い手である我々も、使い方や使用時間を考えて、スマート(・・・・)に(・)使いたいものです。今月の花まつりに際して、賢者ブッダのお智慧(ちえ)から学ばせて頂きましょう。

【今月の言葉】
他を生かし続ける無量寿の「いのち」
                             東井義雄
 
 「寿」という漢字には、「いのち」という意味があります。今月の言葉では、無量寿すなわち「はかることができないいのち」という意味として用いられます。つまり、無量寿とは、単に自分自身の限定的ないのちを指しているのではなく、無限のつながりをもったいのちを指しているのです。
 例えば、この私は一人で生まれてきたわけではありません。父母の存在なくしてこの私はありませんし、父母もその父母からいのちのバトンを受け取ったわけです。さかのぼれば無限のいのちのつながりがあります。
 そう考えれば、いのちとは自分だけのいのちとはいえないのです。無限のいのちのつながりの中に、自分のいのちもあるのです。換言すれば、「はかることができないいのち」が私を含め、他を生かし続けている。今月の言葉はそのようなことを言っているのではないでしょうか。

2021(令和3)年4月 御命日法要について 2021年04月13日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【4月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

新年度を迎え、新たな環境で新たな経験をすることも増える時期だ。ある本に「長いウナギに長い鍋」という格言が出ていた。川でウナギをとってきた夫が、家で妻に調理をするように言うと、妻は浮かない顔で「ウチでは料理できないよ。だって、そんな長い鍋はウチにはないからね」と断った。初めての出来事に柔軟に対応できず、「ウナギは長いから鍋も長くないとダメ」という固定観念を風刺した格言である。

お寺の広報誌に、この話を紹介し、「私を支えている固定観念は、順調な時にはあまり意識されないが、その固定観念が私の生きづらさをつくっている」と書いた。次の日の未明、鮮明な夢を見た。40 年ぷりに臨んだ野球の試合。三塁にボールを投げようとするのだが、体が思うように動かない。一生懸命に投げると、初心者のように手投げになって相手に届かない。それが三度続き、体がボールの投げ方を忘れてしまっている自分に驚いて目を覚ました。

私たちは身体にすり込まれた、固定された記憶のお陰で日常生活が営めている。夢から覚めて、体に記憶が固定されていることのありがたさを感じた。それと同時に、「固定観念はよくないという固定観念」を持っている自分に気づかされた。固定観念もまんざらではない。

新年度、まずは過去から積み重ねられた経験を生かし、その経験を絶対視することなく、新しい発想でいろんなことにチャレンジしていきたい。

「2021(令和3)年4月1日(木) 本願寺新報『赤光白光』より」


4月御命日法要
○ 日時 4月16日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 勤行(讃仏偈)のみ

2021(令和3)年4月 今月の聖語・言葉について 2021年04月01日(木)10時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します・

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
つくべき縁あればともない はなるべき縁あればはなる 『歎異抄』

 新年度を迎えました。まずは新入生のみなさんご入学おめでとうございます。これからスターとする平安での新たな学校生活に期待と不安を抱きながら入学式を迎えたことだと思います。在校生のみなさんも学年が変わり、それぞれの目標に向けて、気持ちも高まっていることだと思います。
 さて、今月の言葉は『歎異抄』に書かれているお言葉です。年度という大きな節目を迎え、三月は別れ(はなるべき縁)があり、そして四月からはまた新たな出遇い(つくべき縁)が待っていることだと思います。別れというと、少し寂しい気持ちにもなりますが、これまでの出遇ってきた人との繋がりが無くなる訳ではないはずです。仲良くしていた友人や今まで支えてくれた人との繋がりが、逆に強くなることもあるはずです。
いよいよ新生活が始まります。不思議な縁で同じクラスになり、こうして机を並べることになりました。ご縁を感じながら少しずつ新たな関係性を築いていきたいですね。
 
【今月の言葉】
戦いで百万の敵に勝つよりも ひとりの自己に克つひとが まことの最上の勝利者よ。  『ダンマパダ』

 日常生活において、勉強やクラブ活動などで自分との戦いを試される場面はたくさんあると思います。そのなかで、人と比べて優越感や劣等感を感じて、喜んだり悩んだりしているのが私たちなのかも知れません。
しかし、本当に大切なことは、「自分自身に克つ」ことなのだと釈尊は教えます。元メジャーリーガーで活躍されたイチロー選手も「人に勝つという価値観では野球をやっていない」と述べられています。もちろん、時として互いに高め合うことの出来る仲間の存在も必要だと思います。ですが、最後は自分との戦いに尽きるのではないでしょうか。つい誰かと比較しがちですが、まず自分自身の目標やすべきことにどれだけ向き合うことが出来ているか問うべきでしょう。最大のライバルは自分の外にあるのではなく、自分自身なのだと改めて教えられる言葉だと思います。
新年度を迎えるにあたり。教訓となる釈尊のお言葉だと思います。一度自分自身を振り返ってみてください。        

2021(令和3)年3月 御命日法要について 2021年03月16日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【3月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

今年も春のお彼岸の季節を迎えました。厳しい寒さも少しずつ和らぎ、太陽が真西に沈むこの時期、春の温かな光に包まれながら阿弥陀さまのお浄土へと往生していかれた大切な人を偲ぶという方も多いのではないでしょうか。
『彼岸花』
俳句では春の季語
「暑さ寒さも彼岸まで」「ひがん花」「ひがんだんご」などと、彼岸は昔から日本人に親しまれてきた国民的行事です。春分・秋分の日を中日とし、その前後一週間のあいだ、寺々では彼岸会という法事が勤められ、祖先をしのび、墓参や寺院に参詣する期間となっています。
彼岸とは、文字通り、向こう岸のこと。サンスクリット語「パーラミター」の漢訳「到とう彼岸」を略したもので、私たちの住む迷い多い此岸から、煩悩の川を渡り越えて到達する仏の世界をいいます。お釈迦さまは、此岸から彼岸へ到達するための道として、六波羅蜜の教えを説いておられます。
太陽が真東からのぼり、真西に沈んでいくこの日に、此岸の現実を反省し、彼岸の仏さまのお徳をたたえるのです。
そういえば、極楽は真西にあると聞きました。
「本願寺出版社『くらしの仏教語豆事典』より転載」

3月 御命日法要
○ 日時 3月16日(火)15時30分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ

2021(令和3)年3月 今月の聖語・言葉について 2021年03月01日(月)09時00分

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今月の聖語・言葉を紹介します。

今月の聖語 ・・・ 正門聖語板
今月の言葉 ・・・ 教室掲示

【今月の聖語】
「凡夫(ぼんぶ)」といふは、無明(むみょう)煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして        『一念多念文意』

今月の聖語は、親鸞聖人の言葉です。この後に、「臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」という文章が続きます。「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲も多く、怒りや腹立ちや、嫉み、妬みの心が起こり、まさにいのちが終わろうとする時まで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることがないという意味です。 
「凡夫」とは、煩悩にまみれた私たち人間を指し、「無明」とは真理があることを知らず、何も見えない闇の中にいる状態のことです。無明であるために、私たちは思い悩み、煩悩が生じてくるのです。それはまるで湧き水のようなものであり、さまざまな煩悩が次から次へと湧き起こってきます。これを止めたり、消そうとしても、煩悩はなくなるものでありません。しかし、自らの心の状態を把握することによって、少しでも欲をコントロールしていけるのではないしょうか。


【今月の言葉】
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。
これこそ実に善く説かれたことばなのである。      『スッタニパータ』

お釈迦さまは、「自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ」と仰せです。他人に対して悪口を言ったり、暴言を吐くことによって、簡単に相手を傷つけてしまう。そして、それは自らの思考や行動にまで影響しはじめ、次第に自分自身を苦しめることにもつながります。それだけ言葉による影響力は強いのです。
近年、SNS上などで言葉による誹謗中傷によるトラブルが多く見られます。インターネットを通じて、文字という形で気軽にやりとりができる時代ですが、顔が見えないなどの理由から、相手の気持ちを考えないような書き込みがなされています。決して面と向かっては言えないことでも、文字なら簡単に言えてしまう傾向にあるようです。言葉を交わすにしても、常に意識して発しなければなりません。
仏教では、相手のことを思いやり、優しい言葉をかけることを「愛語」といいます。よく「和顔愛語」という言葉で表されますが、その言葉どおり、おだやかな顔で、相手を思いやる優しい言葉で接するように心がけたいものです。
                       

2021(令和3)年2月 御命日法要について 2021年02月16日(火)09時00分

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2020(令和2)年度 御命日法要【2月】                       
私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

今年は例年にない大雪に見舞われ、除雪作業中の事故や交通事故の報道が相次ぎ、心が痛む。雪といえば、親鸞聖人にも雪にまつわる歌の話がある。昔の説教本(親鸞聖人御一代記説教)に出てくる話だが、聖人が越後の国をあとに、常陸の国へ行く途中、雪の中をお念仏を称えながら歩んでおられたときのことだ。
聖人一行が橋を渡ろうとすると、向こうの葦原から一羽の白鷺が鳴き声とともに高く飛び去った。その時、聖人は「声なくばいかにそれとは知られまじ雪ふりかかる葦原の鷺」と詠まれたという。そして、雪も白、鷺も白、どこに鷺がいても見分けがつかないが、声をあげて飛び去ったので鷺だと知れた。
今、凡夫の胸の内には、悪業煩悩の大雪が積もっている。その中に阿弥陀さまからいただく他力の信心があるかないかは見分けはつかないが、信心をいただいたしるしには、夜の寝覚めに思い出しても、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と、ご恩をよろこぶお念仏の声が口に浮かぶ、とお諭しになられたという。
雪という災難もお念仏のご縁にさせていただく。ここに真宗門徒の真骨頂があるように思う。災難といえば、新型コロナウイルス感染拡大の猛威は、かつて経験したことのない出来事だ。これから一体どのような社会が到来するのか。もとより、このパンデミックをどう意味づけるかは、これからの私たちの生き方にほかならない。まさに念仏者の生き方が真骨頂を発揮するときだ。

「2021(令和3)年2月1日(月曜日)本願寺新報『赤光白光』より」

2月 御命日法要
○ 日時 2月16日(火)16時00分~
○ 場所 講堂
○ 法話 ※勤行(讃仏偈)のみ

オンライン涅槃会 2021年02月09日(火)16時00分

本日は、本校の礼拝堂で涅槃会をお勤めし、今回もオンライン配信となりました。涅槃会とは、仏教を開かれたお釈迦さまが亡くなられて涅槃に入られた日(2月15日)に行われる行事です。

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 この度のご講師は、相愛大学教授(副学長)の釈徹宗先生でした。

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まず最初に、私たちの脳は、二項対立で物を把握するというお話をされました。二項対立でものごとをとらえると、私たちは攻撃的になったり、排除的になったりする。日本赤十字社が昨年の春に発表した感染には、三段階あるそうです。一段階目はウイルスの感染、二段階目の感染は不安やおそれの感染、三段階目は攻撃や排除の感染というものです。それは、ウイルス感染が拡大すると、世界全体が不安やおそれが起こり、そして攻撃的で排他的になっていくということです。仏教の教えに照らされることによって、私たちの心と体は柔らかくなっていきます。釈先生は、「第一と第二の感染は避けられないものの、とくに第三の感染は二項対立の罠であり、心と体を柔らかくして気をつけなければなりません」と強調されました。

 次に、本願寺の大谷光淳ご門主がお示しになられた「私たちのちかい」を紹介されました。この内容を釈先生がわかりやすく解説された冊子があり、本日の行事の前に全学年で配布し、生徒たちには一読するよう促しました。


私たちのちかい  一、自分の殻(から)に閉じこもることなく
           穏(おだ)やかな顔と優しい言葉を大切にします
           微笑(ほほえ)み語りかける仏さまのように
         一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず
           しなやかな心と振る舞いを心がけます
           心安らかな仏さまのように
         一、自分だけを大事にすることなく
           人と喜びや悲しみを分かち合います
           慈悲(じひ)に満ちみちた仏さまのように
         一、生かされていることに気づき
           日々に精一杯(せいいっぱい)つとめます
          人びとの救いに尽くす仏さまのように

 釈先生は、そのうちの1つ目をわかりやすく解説されました。ときには自分の殻に閉じこもることも大切ですが、閉じこもってばかりいると、自分というものが大きくなり苦しみも大きくなっていくのです。穏やかな顔と優しい言葉というのは、しなやかな心への第一歩であり、お経に出てくる「和顔愛語」という言葉をわかりやすく表したものです。
 次に、4つ目の「気づかされていることに気づく」という言葉に注目され、仏教という鏡のお話をされました。私たちはどうやって気づいていくのか。仏教という鏡は、自分の心の中も見事に映す鏡(あるものをそのまま映す心)であり、私たちはどうしても「自分の都合」というフィルターで映してしまいます。だからこそ、仏教に照らされることによって、少しでもフィルターを通さずに見ていくことができるのではないでしょうか。
 この「私たちのちかい」を通して、あらためて考えてみたいものです。